モリアーティ

桃芽21

それからは洗濯、掃除とこなしては、お茶の時間を共に楽しむようになった。
軽い雑談にもするりと答えてくれる桃介との会話は楽しく、とても誘拐犯とその人質とは思えない光景に芽衣は捕らわれていることを時々忘れかけるほどだった。

「ふぅ……」

ナイトティーのカップをサイドテーブルに置くと、灯りを消して横になる。
と、コツンと何かが降ってきて反射的にそれを手に取った。

「小瓶?」
「子リスちゃん」

聞こえてきた声にバッと顔を上げると辺りを見渡して、シッと声を潜められて慌てて口をつぐむ。

「ホームズさん!」
「無事で良かった。長らくこのような場所で不自由を強いてすまなかったね」

開かない窓越しに姿を現したホームズに、身を起こして駆け寄る。

「今すぐ連れ出したいのだが、思いの外警備が厳重でね」
「そうですか……」
「そこで子リスちゃんにお願いがある」
「なんですか?」

ホームズを見上げると、手元の小瓶を指し示されて。

「それをモリアーティ教授の飲み物に入れてはくれまいか」
「え?」

ホームズの願いに驚くと、改めて手の小瓶を見つめる。

「これ、中身はなんですか?」
「睡眠薬だ。彼を油断させるのは難題だからね。子リスちゃんを奪い返す間、少し眠っていてもらうつもりだ」
「睡眠薬……」
「やってくれるね?」

優しく促されて、けれども芽衣は躊躇う。
毒ではないが食べるものに薬を仕込むのは、自分の信条に反するもの。何より桃介を裏切ることになると首を振る。

「子リスちゃん?」
「ホームズさん、ごめんなさい。それは出来ません」
「お前の信条はわかっているつもりだ。だが、今は致し方無いことと理解してはもらえないだろうか。今は危害を加えられていなくとも、この先もそうとは限らない。僕が彼の要求を拒否すれば状況は一変するだろうからね」

ホームズの言葉に、彼が何かしらの条件を突きつけられていることを知り、迷う。
危険を省みずに敵の陣中に来てくれたのは芽衣を案じてで、ここにいることが彼に迷惑をかけていた。

「ホームズさんは何を要求されているんですか?」
「スコットランドヤードに保管されているとある事件の資料と――レストレード警部の殺害だ」
「!!」

告げられた信じがたい内容に目を剥くと、小瓶を持った手が震えた。

「彼の要求に従えば僕はスコットランドヤードの信頼を失い、逮捕されるだろう。そうすればもう彼を止めるものはいなくなる」
「そんな……」
「それに手の内に納めたお前をそのままにするとも思えない。やってくれるね?」

決断を促すホームズに、芽衣は俯くと小さく頷いた。

「決行日は三日後。お前の協力を確認して屋敷にヤードが突入する手筈になっている。頼んだよ」

計画を告げて去っていったホームズに、芽衣は手の中の小瓶に目を震わせる。
これを、桃介の食事に入れる。
そうしなければホームズは殺人を犯して逮捕されるのだ。
三日……タイムリミットが胸に重くのしかかった。

◼️

翌日は朝から桃介は出かけたらしく、日課の掃除をしながらも気はエプロンのポケットにしまった小瓶にいく。
これを使って桃介を眠らせる。
それは彼を逮捕させることと同義だと分かっていて、躊躇いが生じていた。

「――帰らなくちゃ」

ここでの日々は本来ならばないもので、いつもの日常に戻らなければならないと、分かっているのに胸が重いのは何故なのだろう。
結局その日は桃介と会えず、翌日も出かけていたため、何もできずに当日を迎えてしまった。二日ぶりに部屋にやって来た桃介は、おはようございますと薄く微笑むと、いつものように机で書類を見る。
お茶を淹れればいいだけ。
それだけなのに身体が動けずにいると、彼が顔を上げてこちらを見た。

「お茶をお願い出来ますか?」
「! は、い……」

思いがけずやって来た絶好の機会に、けれども芽衣が動けずにいると、桃介が立ち上がる。

「どうしました?」
「い、いえ……」
「ポケットの中の物を使うには、今が好機では?」

スッと示された指先に顔を飛び上げると、唇が弧を描いて、細く綺麗な指先が小瓶をつまむ。

「ホームズに頼まれたのでしょう? これを、私に飲ませろと」
「! どうして……」
「この屋敷のことはすべて承知していますので」

震える芽衣を見下ろすと小瓶の蓋を開けて、嚥下した喉元に目を見開いた。

「桃介さん!? なんで……っ」
「これがあなたの望みなのでしょう? それに応えたまでです」

空の小瓶を床に投げ捨てる様に身を震わせると、くっと桃介が顔を歪める。

「桃介さん!」
「策は成功したようだね」

よろけた桃介を支えると、ドアが開いてホームズが現れる。

「どうやらネズミが侵入していたようですね」 「君の部下は優秀だね。わずかな跡も見逃してはくれないようだ」
「彼女を取り戻しに来たのでしょう? 帰りますか? 芽衣さん」
「!!」

優雅に問う桃介に、ぎゅっと唇を噛む。
本来ならばホームズの手を取って逃げるのが正解だろう。
なのにどうしてか足は動かず、ホームズに手を伸ばすことが出来なかった。
「子リスちゃん?」
「ホームズさん……私……」
「ストックホルム症候群、という言葉をご存知ですか?」

突然の問いかけに答えられずにいると、代わりにホームズが答える。

「閉鎖された空間の中で人間の生存本能の働きが自分を捕らえている相手に愛情のような思いを抱く心理的な現象、だったかな」
「ええ。まさに今の彼女の状況かと」
「!!」

思いがけない言葉に目を剥くと、薄い笑みが桃介の唇に浮かぶ。

「お嬢さん、あなたが私に抱いている思いは一時の情に過ぎません。それも特殊な状況に置かれたゆえの幻のようなもの。――ままごとの時間は終わりです」

今までの関係をすべて否定する桃介の物言いにぎゅっと拳を握ると、彼を見つめて。
ふるりと、けれどもハッキリ首を振る。

「私は確かにあなたの言うような症状に陥っているのかもしれません。それでも、この思いがまがいものだと、勝手に決めつけられたくはありません。……ホームズさん、ごめんなさい。私……」
「子リスちゃんはその男を選ぶんだね?」

優しく問われ、ホロリと涙がこぼれ落ちる。

「彼は数多くの犯罪を計画してきた犯罪界のナポレオンともいうべき存在……それでもお前は彼を選ぶのかい?」
「私は、彼が犯した罪がどれ程のものかを知りません。だから私は私が見たものだけでしか選べません。私は……」
「あなたも迂闊な人ですね。落とす相手に惚れるなんて」

黒い手袋越しの指に濡れた頬を拭われて、視線を落とした芽衣に桃介が微笑む。

「捕らわれる理由がなくなりましたね」
「え?」
「あなたが望むならと思いましたが、どうやら違うらしい。ならばこれ以上彼の茶番に付き合う義理はありません」

スッと身を起こした桃介に驚くと手を取られ、ホームズを見やる彼に戸惑う。

「今後顔を合わすことがないことを祈りたいものだ」
「あなたともあろうものが神頼みですか? ですがその点においては同感ですね」
「芽衣を不幸にするなら地の果てまで追いかけて見せよう」
「それには及びません。それよりあなたはご自分の家の心配でもなさったらどうです?」
「それは確かに困るなぁ。子リスちゃん、考え直す気はないかい?」
「え?」
「彼女はあなた専属の家政婦ではありませんよ。お望みなら他の者を手配しましょう」
「いや、結構だ」

ぽんぽんと交わされる会話はおおよそ探偵と犯罪組織のボスのものとは思えなくて戸惑っていると手を引かれて、桃介が歩き出す。

「この後のことはご自由にどうぞ。名探偵の名を汚さない程度には差し上げますよ」
「では遠慮なく壊滅させていただこう。子リスちゃんに比べれば安いものだろう」
「ええ。愉快な誤算ですね。これもあなたの策ですか?」
「さあ? どうだろうね」

フッと笑ってこちらを見たホームズの目は優しく、芽衣は何か声をと思案する。

「……部屋は綺麗に使って下さいね!」
「はは、最期の言葉がそれとは実に子リスちゃんらしい」

笑って頷くホームズに、手を引かれて走り出す。
どこにいくつくのかわからない旅の果て。

「不安ですか?」

心の内を覗いたかのような言葉に、けれども首を振って。

「桃介さんこそお荷物を抱えて逃げられるんですか?」
「甘く見ないでもらいたい。何故私が今までホームズ以外のものに怪しまれずにいたとお思いですか?」

不敵な笑みに、改めて目の前の男を見る。

「もっと桃介さんのことを教えてください。あなたが何を考え、何をしてきたのか」
「ええ、構いませんよ。ただしそれを聞いて後悔しても、あなたを手離す気はありませんので諦めてください」

軽口の応酬に微笑み合うと、しっかりとその手を握って。
ロンドンの宵闇に二人の姿は消えていった。
この数日後に、数多くの者がスコットランドヤードによって逮捕されたが、そこにモリアーティの姿はなく、またロンドンの下宿からは優秀な一人の女主人が姿を消したことは、ホームズとワトソンしか知らなかった。
20191201

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