モリアーティ

桃芽21

「あの、一つ不思議だったことがあるんですけど……」
「何ですか?」
「あの時、睡眠薬を飲んだのにどうして大丈夫だったんですか?」
「ああ、あれは飲んだ振りをしただけです」
「……はっ!?」

思いがけない真相に目を剥くと、桃介は優雅に笑んで芽衣の頬を撫でる。

「あなたがどう反応するのか試したんです。効果は絶大でしたね」
「試したって、どうして」
「あなたの心がどちらに向いているのか見極めるためです」

黒の手袋越しに唇を撫でられて、「ん……」と身を震わせると、薄い唇が手袋を食んでスルリとその手から逃げていく。

「あなたが選んだのは私だと、そう思って構いませんね?」
「……今、ここに一緒にいるじゃないですか」
「ええ。それでも言葉で伝えて欲しいと乞うているんです」

とても「乞う」という状況ではないが、否定出来ないのは惚れた弱味だと、口を開くと彼の望む通りに言葉にする。

「愛していますよ、芽衣さん」

もう一度唇を撫でた指先に手袋の壁はなく、新たに覆ったぬくもりはしばらく離れることはなかった。



「――鴎外さん、あの時どうして睡眠薬を渡さなかったんですか」

ワトソン――春草の問いに、鴎外は唇に笑みをのせるとあの日のことを思い返す。
芽衣を助けに行った時、彼女を見て策が不要になることを悟った鴎外は、睡眠薬とは異なる小瓶を彼女に手渡していた。
それを見ていたのだろう春草の問いに、視線を流すとキッチンを見る。
芽衣がいなくなってから皿が洗われることはなく積まれ、料理はおろかお茶のためにお湯を沸かすのみとなっていた。

「モリアーティ教授に手を引かせることが目的だったからね。だが、彼がロンドンを去ってからは上質な謎がなくなってしまったのは実に惜しいことだ」
「はあ……」

問うておきながらさほど興味のない様子の春草に、カップを傾けてふむと目を細める。

「それにお茶の時間が味気なくなってしまったのも困ったものだね」

以前は焼き立てのビスケットやスコーンが添えられていたが、今は買ってきた街角の安物で、味気ないそれらを飲み込むと春草を見る。

「まずは春草、お前の腕を上げることが急務だ」
「鴎外さんが新しい彼女を見つける方がいいのでは?」
「こら、春草。人聞きの悪い。僕と芽衣はそのような関係ではなかったのだよ。それにそのような戯れ言でもモリアーティ教授の耳に入れば厄介だ」

何せ史上最恐のライバルと言っても差し支えのない男だと春草を見れば、ため息をつかれて。空いたカップを手に立ち上がる。

「自分のものは自分で片してくださいよ」
「水くさいぞ春草。僕のも持っていきなさい」
「嫌です」

スパンとはねのける春草に肩をすくめると、やはり誤ったかなと今はいない女主人を思い返して、鴎外もカップをキッチンへと戻した。
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