想いの証明

桃芽20

「あんたが岩崎の旦那の贔屓かい?」

音二郎さんから頼まれた買い出しの途中で呼びかけられ驚き振り返ると、そこには黒留袖の美しい女がおり、涼やかな眼差しが向けられていた。
一目で芸者だと分かる相貌に圧倒されると、女は無遠慮にこちらを見下ろし、フンッと嘲笑する。

「最近神楽坂に河岸替えしたって聞いたけど、どうやらただの噂だったようだね」

一方的な品定めに唖然とするも、以前音二郎さんが言っていたことを思い出して口をつぐむ。
まさに今、「私の客を返せ」と新橋の芸者がやって来てるのだろう。――ただ相手は私を力不足と判断したようだが。

「大方付き合いか何かで一時的になんだろうさ。あんたも妙な期待なんかしないことだね」
「妙な期待?」
「なんだい、まさか本気で熱をあげてるって言うのかい? こんな垢抜けない半玉を本気にさせちまうなんざ、旦那も罪なお人だねえ」

妖艶な芸者は音二郎さんもとい音奴と比べても見劣りすることのない器量で、女の私でもつい見惚れてしまって、そんな私を一瞥するとサッと身を翻して歩いていってしまった。
その後ろ姿をすっかり見送って、力なくお使いへと戻っていった。



「はあ……」
「またずいぶんと大きなため息じゃないか。何かあったのかい?」

知らずこぼれたため息を聞き留めた音二郎さんに問われ、逡巡した後に昼の出来事を話す。

「やっぱり来やがったか。それでお前、何もされなかったのか?」
「はい。付き合いでの一時的なものだと思ったみたいです」

何だそりゃ、と肩をすくめるも私に危害を加えられなかったことに安堵したようで、しばらくは気をつけろよと気遣われる。
そうしていつものように雑事に戻ると、ふとある呟きを思い出した。

『気の強い女の方が征服欲を刺激される』

新橋の芸者は目鼻立ちがスッとした美人で、まさにその言葉通りの女に、ツキリと胸が痛む。
彼女が一瞥して見下したように、特段綺麗なわけでも芸に秀でているわけでもない芽衣を桃介さんが贔屓にするなど、芽衣自身が信じられなかった。
けれども芸者の言う一時の気の迷いという言葉に頷けないのは、桃介さんが自分に向ける想いを知っているから。
芽衣自身、ここは神楽坂なのだからと戒めていたが、愛していると、まっすぐに淀みなく伝えてくれたあの日の彼の言葉が決して花街の睦事などではないとわかっていた。

『金でもなんでもすべてくれてやる! 俺の命と引き替えでもいい! だからその人だけは放してやってくれ……!!』

胸を抉られるようなあの時の声を忘れられるはずがない。
離れたくないと、こんな悲しそうな顔が最後だなんて絶対嫌だと、そう思った。それがすべてだった。
あの時、きっと自分は選んでいたんだろう。
現代に帰るのだと、そう言い聞かせながらもただ会いたい気持ちのままに夜の街を俥で駆け抜けていた。
あんなことがあった後に桃介さんを一人にしたくなかった。そばにいたかった。
それぐらい好きになってしまったのだと、自覚した時にはもうこの想いを隠すことが出来なかったのだから。
その想いのまま、この時代に残ることを選んだ。彼のそばにいることを。

(でも、桃介さんは私の何が良かったんだろう)

未来を知っているので、明治の人より電気に対して理解がある。それが彼にとって大きなものであるのは確かだろう。
一生をかけるほどに情熱を注いでいる電気の普及事業もまだまだ鳴り物扱いで、天下の福澤一門の者でさえバテレンの妖術などと言い、多くの者に理解されず苦しい思いをしているのは、出会ってまだ日の浅い芽衣でもわかっていた。
それに当たり前に現代に溢れていた電化製品も彼の興味をいたく引くようで、電光掲示板や電車に食いつかれた時には説明に困ったものだった。
でも確かに電気に対して理解はあるが、逆にそれだけだとも言えるのだ。
とりわけて美人だというわけではなく、立ち方のように踊りも出来ず、鳴り方のように三味線や長唄も出来ない、ただのお酌。

(あの人じゃなくてもなんで私を指名してくれるのか不思議だよね……)

新橋の芸者が見下していったのも当然だと思うほど芽衣には何もなく、通ってくれる桃介さんにただ酌をしながらその話に付き合うことしか出来なかった。
考えれば考えるほど気持ちは沈んでしまい、掃除もはかどらないまま、気づけば仕事の時間になっていた。
いつものように入った指名は桃介さんで、彼の横でお酌をすると「どうかしましたか?」と問いかけられた。

「気がそぞろのようですが何か気になることでもあったのですか?」
「いえ、すみません。なんでもないんです」

お客様に気を遣わせるなどもっての他だと、ぶんぶん首を振って気持ちを入れ替えると桃介さんが盃を御膳に置く。

「お酒はもういいです。それより少し外に出ませんか?」
「? はい、わかりました」

彼の誘いに女将に外出する旨を伝えると、夜の街を二人歩く。
そうしていると上野に出かけたことを思い出して、顔に熱がこもる。

「顔が赤いようですがもしかして体調が悪いのですか?」
「い、いえ! 全然元気です!」

まさか上野の一件を思い出していたとは言えずに否定するとじっと覗きこまれて、心の奥まで見透かされそうなその瞳につい目をそらしてしまう。

「やはり今夜のあなたはいつもと違うようだ。私が仕事で来れなかったこの数日の間に何かありましたか?」
「……っ」

どうしてこの人はこうも鋭いのだろう。
指摘につい息を詰めると、疑問を確信へ変えた桃介さんが視線を強める。

「仕事で嫌なことでもありましたか? それとも嫌な客に何か無理強いを……」
「ないです。違います。ただちょっとぼんやりしていただけなんです」
「本当に?」
「はい」

訝しむ桃介さんに頷くと一応は引いてくれたものの、納得出来ていないのが見てとれて、どうやって誤魔化そうかと思案する。

「それならこれからいろはで夕飯でもいかがですか」
「……!」

何とも魅力的な誘いに、けれどもぐっと踏み留まる。
先程夕飯を控えめにした意味が、牛鍋を食べたらなくなってしまうからだ。

「え……っと、夕飯はお座敷前に済ませたので」
「やはり具合が悪いのですか?」

牛鍋を芽衣が断るなどあり得ない事態に顔を強張らせると、桃介さんが踵を返す。

「桃介さん?」
「女将に言って今日はもう休ませてもらいなさい。体調が優れない時に無理強いする人ではないでしょう」

確かに女将はそのような無体を強いる人ではないが、体調が悪いわけではないのでちょっと待って下さい!と慌てて引き留めた。

「あの、体調は大丈夫です。ただちょっとダイエットしていたので……」
「ダイエット?」
「えっと、綺麗になりたいと思ってですね……少し体重を落とそうかと」
「あなたには不要でしょう。むしろもう少しふくよかになられても何も問題ありませんよ」

この時代の美人の定理の違いからか、そんなことを言ってくれる桃介さんに、ふくよかな方が好みなのかな?と、つい自分のささやかな胸に視線をやってしまう。

(あの人は大きいのかな)

和服は胸を分からないように着るのではっきりとは分からなかったが、きっと自分よりはあるのだろう。
そう思うといっそう気持ちが沈んでしまい、この場から逃げ出したくなってきた。

「あの、今日はもう帰りますね」
「待って下さい」

手を取られては逃げ出せずに、仕方なく彼を見るとその目には苛立ちが浮かんでいた。

「あなたは体調に問題はないと言った。ではなぜ帰ると仰るんですか? 私とあなたは恋人だと思っていましたが、私の独りよがりの思いだったのでしょうか」
「そんなことないです!」

恋人だと明言してもらったことより、思いを否定されることが嫌で首を振るとそれならと、さらなる追及が続く。

「確かに以前私は、ただの火遊びだと思うのなら、そう思っていればいいと、そう言いました。やはり私の気持ちは伝わっていなかったと言うことでしょう」
「違います! 桃介さんが花街の戯れで接していたなんて思ってません!」
「では何故今、あなたは私から離れようとするんです?」

誤魔化しは許さないと、その瞳の力強さに俯くと、胸の内を明かす。

「ただ私は、どうして桃介さんが私なんかを好きになってくれたんだろうって不思議で……」

今日ずっと胸の内を占めていた思いを口にすると沈黙が流れて、掴まれていた手に力が入る。

「……っ、桃介さん」

手が痛いと、そう訴えようとして、彼の怒りに言葉を飲む。

「やはりあなたには私の気持ちは伝わっていなかったようですね」
「そんなこと……」
「あなたが信じられないのなら、伝え続ければいい。そう思っていました。言葉だけで信じてもらうなど土台無理なことだと」

自虐めいた光を宿す瞳に、自分の過ちに気づいてぶんぶんと首を振るが、桃介さんの瞳からその色は消えず、手を引かれて歩かされる。

「桃介さん?」
「…………」

無言のまま歩く桃介さんの横顔は質問を拒絶していて、口をつぐむと通りがかった俥に共に乗せられる。

「築地へ」

そう行き先を告げて黙りこんだ桃介さんに、けれどもその手が離されることはなく、やがてついた場所に呆然とする。
大きな洋風の邸宅は見たこともないぐらい立派なもので、けれども彼は物怖じすることなく中へ入っていく。

「あの、桃介さん。勝手に入ってしまっていいんですか?」
「ここは私の家です」
「えっ!?」

慣れた手つきで鍵を開けると、電気をつける姿に呆然と家の中を見る。
整理整然とした佇まいは無駄を嫌う桃介さんらしく、所々置かれた高価と思われる品々も品の良さを感じさせた。

「最近はもっぱら三田に通いつめていたので、帰ってきたのは一月ぶりですが、通いの者が手入れをしているので問題ないはずです」
「そうなんですか」

お手伝いさんを雇えるのだからやはり裕福なのだろうと改めて思うと、二階の一室へ連れていかれる。
だがその中を覗いた瞬間、ドクンと胸が跳ね上がった。
部屋の中で一際存在感を放っているのは壁際に置かれたベッドで、ここが彼の寝室なのだとわかったからだ。

「桃介、さん……」
「愛していると言葉だけで伝わらないのならば、ここで今あなたを私のものにすれば信じてもらえますか」
「……!」

瞳に宿る暗い光は、物の怪を憎んでいた頃を思い起こさせて、そんな目をさせてしまったことを悔やむ。
いくら自分に自信がなかったとはいえ、芽衣の言動は彼の想いを疑うものであったからだ。

「ごめんなさい、桃介さん。私、不安だったんです。新橋の芸者さんに、本気で熱をあげてると思うなって、神楽坂へ通っているのも一時的な気の迷いでしかないと言われて……」
「新橋の? 彼女らがそう言ったんですか?」
「はい……」

頷くと不機嫌そうに眉が歪められて、はぁと苛立ちのままに髪をかきあげる。

「あなたの態度の理由は理解しました。ですが納得は出来ません。何故私より彼女の言葉を信じるんですか? やはり私はあなたの信頼を得られていないと、そういうことでしょう」
「違います! 私が自信がないからで、桃介さんを信じてないからじゃないんです」

新橋の芸者の言葉に揺らいでも、一時の気の迷いだという言葉には頷けなかった。桃介さんの想いを信じていたから。

「私は美人でもないですし、音二郎さんのように踊りが出来るわけでもありません。桃介さんのように博識でもありませんから。だから何故だろうって思ったら自信がなくなってしまったんです」
「あなたはあなた自身の魅力に気づかなすぎる。それほど過小評価するのはやはり記憶がないからなのでしょうか」

桃介さんの言葉に、彼こそ過大評価し過ぎなのではと思うが口にはしない。

「私がこの築地の自宅に招いたのはあなただけなんですよ」
「えっ」
「自分の内をさらけ出せるものなどそう居はしないでしょう。もっともあなたを招くのは結婚してからだと思っていたのですが、予定が早まるのはむしろ大歓迎です」

にこりと微笑む桃介さんは冗談とも本気とも思えて、ふと以前再会した折りに身請け話が上がった時のことを思い出した。

「冗談ではありませんよ。私としては今すぐあなたを身請けしても構いません」
「それは……」

桃介さんの元に来るのが嫌なのではないが、人手不足の置屋の現状を思うと今すぐというわけにもいかず、眉を下げるとフッと唇が笑む。

「あなたが義理堅いことは承知していますから、もう少しだけ待ちますよ。ただひとつお願いがあるのですが」
「なんですか?」

桃介さんからのお願いなんて珍しく、頷くと話の続きを促す。

「今度あなたのお休みの日に一緒に埼玉の川越町へ行って欲しいんです」
「埼玉ですか?」
「はい」

桃介さんの車ならばそれほど遠くもないのだろうが、何故埼玉なのだろうと疑問に思っていると、それを見抜いて言葉が続けられる。

「川越町は私の郷里なんです」
「桃介さんのご実家ですか?」
「はい。両親は鬼籍に入っているので、今は兄や妹達だけですが」
「分かりました。よろしくお願いします」

以前聞いた兄妹の話を思い出しながら頷くと、ふふっと桃介さんが笑う。

「桃介さん?」
「いえ、あなたと出かけるのが楽しみで」

笑みの理由に訝しむも、桃介さんが笑ってくれているのは嬉しくて、出かける日に思い馳せる。

「ところで今日は泊まっていきますか? 私は構いませんが」
「! 帰りますよ。女将さんも音二郎さんも待ってますし」

桃介さんの提案にぎょっと身を強張らせると、一瞬の間が空いて。

「あなたは本当に音二郎君を慕っているんですね。ただ場は考えるべきです」

え、と問い返す間もなく一歩を詰められて、重ねられた唇は息も絶え絶えになるまで離れてはくれなかった。

20191102
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