モリアーティ

桃芽22

突然路地に連れ込まれて、布で覆われたと思ったら意識が遠のき、目覚めたら広々としたベッドに寝かされていたという現状に、混乱しつつ身を起こすと、「目覚めましたね」と声をかけられ驚き振り返る。
部屋の奥のデスクで腰かけ、こちらを見ていたのは見目麗しい青年で思わず見惚れていると、彼が立ち上がって歩み寄ってきた。

「どこか痛む場所は? 気分は悪くありませんか?」
「え? はい、大丈夫です。あの、ここは……」
「ここは私の屋敷ですよ。ハドソン婦人」

名前を呼ばれて驚くと、連れ拐われた経緯を思い出して身を強張らせる。

「私を、どうするつもりですか」
「どうもしませんよ。今はね」

警戒を露にするも、青年は気にも留めず、再びデスクの方に歩き出して。

「私はモリアーティ。以後お見知りおきを」

そう薄く笑みをのせた顔は美しくて、そんな場合ではないのに見惚れてしまった。

「この部屋にあるものは自由に使ってもらって構いません。風呂場はあちらに、眠いのなら出ていきます。ああ、外出だけはご遠慮ください」

書類を手に告げるモリアーティに、さすがにこの状況で呑気に風呂に入れるほど神経は図太くなく、芽衣は逡巡すると寝ることを選んだ。

「そうですか。ではまた明朝お会いしましょう。おやすみなさい」

サッと立ち上がると部屋を出ていったモリアーティに、続いて聞こえた鍵の閉まる音にはぁとため息をつく。

「ホームズさん……」

拐われた自分をきっと下宿しているホームズやワトソンが探しているだろう。
何故モリアーティが自分を拐ったのか、その理由を説明されなかったために分からなかった。
これから自分はどうなるのだろうと、押し寄せる不安に力なくベッドに倒れこむと目をつむった。

◼️

翌日、目を覚ました芽衣は、見知らぬ天井に夢ではなかったことを悟ると、身を起こしてため息をついた。
自由に使っていいと言われたが、自分を誘拐した者の用意したものなど安心して使えるはずもなく、連れられてきた時のままの服を着ていた。

「洗濯したいなぁ」

普段なら晴れやかな陽射しの元、干されたほくほくの服を毎日当然のように着ていたから、翌日も同じものというのはどうにも落ち着かず、せめて顔ぐらい洗いたいと洗面所を探す。
部屋の中を見渡して大体の目安をつけると、すぐに洗面所は見つかり、たっぷりの水で顔を洗うと傍らの浴室に目を止めて。

「ついでにシャワーも使っちゃおうかな……」

服と同様に見知らぬ者の家で肌をさらすのも気が引けたが、元来綺麗好きなために誘惑に抗えず、服を脱ぐと浴室へ入る。
だがそこは住み慣れた質素な下宿と異なり、あまりの豪華さに言葉を失うと、どうしてこんな人が自分を拐ったのだろうと再び疑問がわいた。
祖父から譲り受けた下宿に住まいながら住人の世話をしている芽衣は、当然誘拐の目的となるほどお金を持ってはいない。
となると芽衣自身かとなるが、自分が人並みの容姿であることは自覚しているので、余計に理由がわからなくなる。

「あの人なら引く手数多だろうし……」

昨夜会ったモリアーティと名乗った青年は、会う人揃って見惚れるだろうというぐらい、見目麗しかった。
いくら考えても理由が分からず、ため息をつくとシャワーを止めてタオルを手に取るも、脱衣場に置いてあったはずの服が見つからず、代わりとばかりに淡いブルーのワンピースが置かれていた。
いつの間にか誰かが入ってきていたのかと身を強張らせるも、誰がいるかもわからない状況でこの姿のままでいるわけにもいかず、仕方なしに用意されたワンピースをまとうと、タオルドライもそこそこに部屋に戻る。
と、美味しそうな匂いが辺りを漂っていて、ふらりと惹き付けられるようにリビングへ歩いていく。

「おはようございます。よくお似合いですよ」
「モリアーティさん!?」

テーブルいっぱいに並べられた食事と、その傍らに座るモリアーティに驚くと、どうぞ席へと言われて渋々腰かける。

「どうぞ召し上がってください。あなたの好みがわからないので、多種用意させました」

その言葉通り、朝食にしてはかなり豪華なメニューにお腹は正直で、ぐぅと空腹を訴えるのに逆らえずおずおずとスプーンを取った。

「! 美味しい!」
「それは良かった。あなたの口に合ったようですね」
「モリアーティさんは食べないんですか?」
「私はこちらで結構。気にせずあなたは食べてください」

そう言って目の前の食事には手をつけずに、ポケットから取り出したチョコレートを食べるモリアーティに、芽衣は驚きながら食卓に並べられたおかずに手をのばす。
高級レストランからデリバリーされたのではという味付けと食材に目を輝かせるも、やはりモリアーティはまったく見向きもしない。

「本当にいらないんですか?」
「ええ。すべてあなたのために用意させたものです」
「ええ~……」

こんな豪華な食事を芽衣だけにと驚くも、彼が手をのばす気配はないため、黙々と一人皿を空けていく。

「ご馳走様でした!」
「ふふ、すべて食べたんですね」
「? はい」
「あなたはご自分の状況を把握されていないようだ。もし毒が仕込まれていたらどうするんです?」
「えっ!?」

ギョッと目を見開くと、冗談ですと流されて、複雑な思いで彼を見る。

「ですが、ここはあなたの家ではありません。そう簡単に警戒を解くのはどうかと思いますよ」
「……はい」

誘拐犯に諭されるという、なんとも微妙な状況に肩を竦めると、鳴らされた鈴に入ってきた使用人らしき人達に目の前の皿が片付けられて。
再び訪れた静寂に、芽衣はモリアーティを見た。

「どうして私を拐ったんですか?」
「あなたはホームズの人質です」
「ホームズさん!?」

彼の口から飛び出た名前に目を剥くと、いつかの会話が思い出される。



「本当にモリアーティ教授なんですか?」
「ああ。彼は自らの手は汚さず、計画を授けて人を操る。コンサルタントとはよくいったものだ」
「モリアーティ教授?」
「ああ、ありがとう子リスちゃん。うむ、彼は非常に巧妙でね。自分に繋がる証拠は一切残さないのだ。おかげでスコットランドヤードの中でも、彼が犯罪に関わっていることに懐疑的な声も多い」
「そんなすごい人を相手に大丈夫ですか?」
「臆すのかい、ワトソン?」
「それはそんな厄介な相手、正直相手したくありませんよ。面倒そうだ」
「お前はまったく……」

やれやれと肩を竦めるホームズに、芽衣はスコーンと紅茶を用意する。

「それならしっかり食べてくださいね。はい、ワトソンさんも」
「子リスちゃんの作るスコーンは実に美味だね」
「うん、さすがに食い意地が張ってるだけはある」

余計な一言を加えるワトソンに頬を膨らませると、よしよしと宥めるようにホームズが頭を撫でてくれた。



「……ホームズさんをどうするつもりですか?」

問うもそれには答えてくれず、モリアーティは優雅に紅茶のカップを傾けた。

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