モリアーティ

桃芽21

それから数日は何の変化もなく、ただモリアーティと同じ部屋で一日過ごす日が続いた。
彼は書類に目を通すばかりでこちらを構うことはなく、芽衣は手持ちぶさただった。
普段ならホームズの家を掃除したり、洗濯をしたりしているから、ただ座っているだけというのも苦痛で、ちらりとモリアーティを見ると意を決して話しかける。

「あの」
「なんですか?」
「掃除をしてはいけませんか」

芽衣の言葉に顔を上げたモリアーティは、何を言ってるんだと訝しそうに見る。

「部屋が散らかっているようには見えませんが」 「見えなくても結構埃がたまったりするんですよ。それに正直手持ちぶさたで……」
「なるほど……」

素直に理由を説明すると、思案する素振りを見せて、僅かな間の後に人がやって来た。

「ホウキとハタキ、後は雑巾を」
「あ、バケツもお願いします」

モリアーティと芽衣の要望に頷くと、数分後それらが運ばれてきた。

「少し埃がたつと思いますけど……」
「構いませんよ。どうぞ始めてください」

まるで意に介さず書類から目を離さないモリアーティに、ならばと髪を纏めていた布で口元を覆うとハタキを上から順にかけていく。
芽衣がこの部屋を使うまできちんと手が入れられていたようで、数日分の汚れはそれほどでもなく、次にホウキを手にすると手早く掃いてゴミを取り除く。
その後は雑巾を乾拭きと水拭きを使い分けて部屋を掃除すると、綺麗になった部屋に満足する。

「さすがに手際がいいですね。ホームズの元では毎日こなされていたのですか?」
「はい。ホームズさんもワトソンさんも綺麗好きなのにだらしないので」

数々の謎を解き明かし、警察を手助けしている彼らに快適に過ごしてもらいたくて、毎日家を整えていた。
せっかくの天気なのに布団が干せてないなぁとか、洗濯物たまっちゃってるよね、などと気にしているとドアがノックされて、イレブンジズのお茶が運ばれてきた。
手を洗い、テーブルに戻るとやはりモリアーティはビスケットには手をつけず、紅茶とポケットのチョコレートを口にしていた。

「モリアーティさんは食べないんですか?」
「私はチョコレートで十分です」
「いやいや、それじゃ栄養足りませんって!」
「チョコレートは非常に効率のよいエネルギー源です。私のことは気にせずどうぞ召し上がってください」

以前と同じやり取りに、芽衣は考え込むと料理をしたいと願い出る。

「それは了承しかねます」
「どうしてですか?」
「刃物や火を使わせるわけにはいきませんから」

モリアーティの言葉に、人質の身なのだと改めて気づいて思案すると、それならどちらも使わないのでと、欲しい食材を告げた。
ここ数日で芽衣の食欲がかなり旺盛だと分かっていたモリアーティが了承したのに複雑な思いを抱くが、多少の不都合は目をつむることにして目的の物を作ると、彼の前に皿を置く。

「これは?」
「サンドイッチです。モリアーティさんは食事に時間をかけるのを好まないようなので、作業しながらでも食べられるものにしました」
「ほう……この短期間で私の嗜好を把握されましたか。しかし、申し訳ありませんがそちらは遠慮します」
「え? サンドイッチお嫌いですか?」
「ホームズの手の者の作った物を安易に食すほど愚かではないんですよ」

モリアーティの返しに芽衣は目を丸くすると、黙りこんで。おもむろにサンドイッチを手にするとがぶりとかぶりついた。
そうしてモグモグと咀嚼すると飲み込んで、改めてモリアーティを見る。

「食べるというのは生きとしすべてのものにとって大切な行為です。それに毒なんて入れるのは絶対許せません」
「……毒味、というわけですか。しかし、そちらのサンドイッチが無事でも、こちらに毒がないとは限りません」
「だったら、モリアーティさんが安心するまでどれだって毒味します」

そう言ってもう一つのサンドイッチを手に取りかじる姿に、モリアーティが瞳を瞬く。

「わかりませんね。私が食べることであなたが得るメリットはなんです?」
「メリットなんて考えてません。ただチョコレートばかりじゃ身体に悪いので、バランスの良い食事もして欲しいだけです」
「それこそあなたには関係のないことでしょう。それで私が体調でも崩せば、あなたにとってはチャンスなのでは?」

ポーカーフェイスを崩さず問う目は、芽衣の真意を見抜こうと鋭く、それに臆さないようにぎゅっと唇を引き締めて彼を見返す。

「さっきも言ったように食事に毒を入れるのは私は絶対許せません。そんなことをして逃げようなんて思いません」
「それがあなたの信条だとしても、私に施しを与える意味は? ――ああ、情を得る作戦ですか」

ありもしない裏の意を読み解こうと笑む彼に、どうすればそんなことをしようと思っていないと伝えられるか悩む。
モリアーティに捕らわれて以来、彼は芽衣を粗雑に扱うことはなく、食事を与え、風呂やトイレなども一人で使わせ、当たり前の尊厳を損なうような行為は一切しなかった。
鎖に繋がれることもなく、屋敷の外に出ることは叶わないが、こうして条件付きでも料理をする自由も許されている状況に、彼は本当にホームズが言うように犯罪組織のボスなのかと考えてしまうぐらいだった。
何より芽衣には食事に対して強いこだわりがあり、モリアーティの著しい偏食を見過ごせなかった。

「別に媚びるつもりなんて……」
「私のことは気にする必要はありません」

言い捨て、手をのばす素振りのない様に、芽衣はしょんぼりとサンドイッチを手に取る。
それからも、芽衣は何度と彼の食事を用意した。
火を使う必要があるものやカットはあらかじめ手を加えてから運んでもらい、盛り付けと味付けて食卓に並べる。
同じ器から取り分ければ安心するかと、目の前で食べて見せても一向に食べてはくれなくて、肩を落とす。

「あなたも存外頑固ですね。私を気にかけても無駄だと言ったはずですよ」
「モリアーティさんこそどうしてそんなに頑ななんですか」

こうも毎食断られてはさすがの芽衣もへこんでしまった。
それに何より重大な問題も発生していた。

「モリアーティさんが食べてくれないから太ってきちゃったんですよ!」
「……はい?」

目を丸くするモリアーティに、しかし芽衣には切実な問題だった。
だって以前は簡単に着れていたスカートのウエスト部分にゆとりがなくなり、気持ち顔回りもふっくらしてきた気がするのだ。

「前のように家事で動き回れるわけでもないし、こんなんじゃどんどん太っちゃうじゃないですか!」

以前ならホームズの家を毎日掃除したり、洗濯したりと一日動き回っていたが、モリアーティに捕らわれてからは掃除ぐらいしかすることがなく、ひたすら食べて寝るだけだった。
さらに彼の分まで過剰に食べるとあっては太らないわけがなく、けれども残すという選択肢は論外で結果肥ゆる日々に困ることになっていた。

「……はっ、あなた面白い人ですね」
「面白いって、私には深刻な問題なんです」
「ならどうして作らないという選択をしないのでしょうか?」
「モリアーティさんがちゃんとご飯を食べてくれるなら、自分の分だけ作ります」

初めて見た笑顔に虚をつかれると、すぐにその表情はいつもの笑顔に戻ってしまって、それを残念に思いながら頬を膨らませた。
そんな芽衣をじっと見つめると、いいでしょうと立ち上がり、彼が皿の料理に手を伸ばす。

「あ、毒味……」
「先程あなたが食べていたでしょう?」

慌てて取り分けようとするのを制されて、優雅に口元に運ばれていくのを茫然と見守る。

「ほお……あなたはなかなかの腕前のようだ」

食べてくれたことだけでも嬉しかったのに、こうして誉めてくれるとは思わなくて、感心したように微笑む姿にどくんと鼓動が跳ね上がる。

「ありがとう、ございます」
「……本当におかしな人だ」

思わずお礼を述べると苦笑されて、なんだか恥ずかしくなって俯いた。

「そうですね……いつもというわけにはいきませんが、時々はご相伴に預かりましょう。ああ、それほど食べませんのであなたの分を少し分けてもらえば十分です」
「わかりました」

時々、というところにまだ警戒が解けていないことがわかったが、それでもこうして芽衣の提案を受け入れてくれたことが嬉しくて了承する。
まったく食べてくれなかった頃に比べれば、これは大きな進展だった。

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