「美味しい食事のお礼にお茶を淹れます。紅茶で構いませんか?」
「あ、私がやります」
「お礼と言ったでしょう? 座っていなさい」
芽衣を制すとキッチンに消えたモリアーティに、おずおずと座るも落ち着かない。
ホームズの家なら家事全般が芽衣の仕事だったので、こうして逆に用意してもらう立場は落ち着かないのだ。
程なく、芳醇な薫りを漂わせ現れたモリアーティから紅茶を受け取ると、ありがとうございますと口をつける。
「! 美味しい……!」
「お口に合ったのなら良かった。それにしても相変わらず迂闊ですね。もし、それに毒が入っていたらどうするんです?」
「……っ!?」
モリアーティの指摘にカップを揺らがせると、こぼれた紅茶が足にかかる。
熱いと悲鳴を上げるより早く手を引かれると身体が浮いて、一瞬後に抱き上げられていることに気がついた。
「モ、モリアーティさん?」
「まったく……淹れたての紅茶だとわかっているでしょう」
抱えられ浴室に連れていかれると、バスタブに座らされて服のままシャワーをかけられ慌てる。
「冷た……っ」
「我慢してください。火傷は即座に冷やさなければいけません」
自身が濡れることも厭わず、芽衣の火傷を気にするモリアーティに、口をつぐむと浴室はシャワーの水音だけが響いて、気まずそうに彼を見た。
「ごめんなさい……」
「あの状況で冗談を言えばあなたがどういう行動を取るか、見極められなかった私の落ち度です」
「冗談……だったんですか?」
「本気だった方が良かったですか?」
ブンブンと勢いよく首を振ると微笑んで、シャワーの水が止まる。
「失礼」
「ひゃっ!?」
いきなりスカートの裾を捲られ慌てるも、有無を言わさぬ空気に動けず、その間に火傷の具合を確認したモリアーティがタオルを持ってきてかける。
再び浮いた身体に慌てるも、「大人しくしていなさい」と一喝されて、見慣れた部屋に連れていかれた。
「着替えは出来ますか? 一人で難しいなら手伝いますが」
「大丈夫です! 一人で出来ます!」
「そうですか。では風邪をひく前に着替えるように。後程医者を手配します」
「大丈夫……あ」
断る前にしまったドアに、仕方なしに服に手をかけると、眼に入った鏡に絶句する。
水に濡れて張りついたワンピースは下着をくっきり映し出していて、こんな姿で彼の目の前にいたことを知って一気に血が上る。
急いで脱ぐとタオルで拭って、タンスを開けて沢山かけられた服の中から一つを選び取る。
ここに連れてこられた時は、十分な量の服が用意されていることに、この誘拐が前から計画されていたのだと知って身が震えたが、今では慣れてきている自分に苦笑が漏れた。
「おかしい、よね」
自分を誘拐した人を気遣い、ご飯を振る舞う自分の行動を振り返って、先程言われたことを思い返す。
確かに本来なら恐れ、口を聞くのさえ躊躇うのだろう。
けれども、紅茶を淹れてくれたり、火傷を気遣ってくれたりと、彼の振る舞いは一貫して紳士的で、芽衣の警戒心はいつの間にか弛んでしまっていた。
「ダメダメ! ホームズさんだって言ってたじゃない」
ロンドンの未解決事件はすべてモリアーティが関わっていると、ホームズは眉を潜めてワトソンに話していた。
それが事実なら彼は犯罪者なのだ。
しかもその組織のボス。
知らず落ちていた視線を上げると服を着て、椅子に腰かけると見計らったように女性の医者が来て、火傷の具合を確認すると初期の処置が良かったと塗り薬を手渡された。
「人質だから、だよね」
傷をつけないのも火傷を気にするのも、すべてはホームズとの取引のため。
そう思いつつも、女性の医者を手配するところなどは火傷の箇所が腰付近だったことに配慮されているとしか思えず、芽衣の中にモリアーティに対する戸惑いが降り積もる。
それからランチを済ませ、そろそろアフタヌーンティーの時間という頃になり、暇潰しに読んでいた本を傍らに置くとふぅと吐息を漏らす。
「痛みますか?」
「え?」
「火傷です。症状は軽かったと聞いていますが、数日は痛みが残るでしょう」
「これぐらいなんともありません。料理をしていれば多少の火傷は日常茶飯事ですし」
「そういうものですか?」
「はい」
芽衣の返しに目を丸くすると、目元が和らいで。ゆるりと顔の下で手を組む姿に思わず見惚れる。
「火傷をさせてしまったお詫びに、料理を許可します。キッチンも使えるようにしますので、食材はあるものを好きに使ってもらって構いません」
「いいんですか?」
「ええ。洗濯も室内で良ければ構いませんよ」
解禁された家事にさらば肥ゆる日々!と万歳すると、ありがとうございますとモリアーティを見る。
「本当におかしな人だ」
「働かざる者食うべからずです。労働するからご飯も美味しくなるんですよ」
「なるほど。ではこれから食事の用意も不要ですね」
「うっ。……その、たまには美味しいものも食べたいかなぁ、と」
高級レストラン並みの料理を思い出して眉を下げると、声を上げて笑うモリアーティに唇をつきだし拗ねてみせる。
「……モリアーティさん、笑い過ぎです」
「失礼。あなたが楽しい人なのでつい」
そう言い笑みを納めるとこちらを見て、薄く唇に笑みをのせた。
「――桃介と。モリアーティはラストネームなので」
「桃介、さん?」
「ええ。呼ぶのにラストネームは長いでしょう?」
教えられたファーストネームに、ならばと芽衣も自身を指す。
「なら私のことも芽衣と呼んで下さい」
「わかりました。では芽衣さん、早速紅茶をお願いしても?」
「はい!」
「ああ、急がなくて結構。くれぐれも火傷を繰り返さないでください」
先程のことを持ち出されて同時に自分の恥ずかしい姿も思い出してしまい、顔を赤らめるとそそくさとその場から逃げるようにキッチンへ行く。
「桃介さん、あの時のこと忘れてくれないかなぁ……」
さすがに嫁入り前の身であられもない姿を晒したことは恥ずかしく、出来れば記憶を抹消したいぐらいだった。
「手元が疎かになっていますよ、お嬢さん」
「ひゃっ!」
後ろからの声に肩を跳ねさせると手がのびて、落としかけたカップが台に戻る。
「考え事は調理中は控えるべきだと思いますが」
「ありがとうございます。すみません、気をつけます」
注意されたばかりだと言うのに、再びの失態に眉を下げると、並べられた茶葉から一つを選び茶の用意をする。
その様子をじっと桃介が見つめているのに気がついた。
「桃介さん?」
「あなたのような方の下宿に住むとはホームズの目利きも確かなようですね」
「ホームズさんは気を取られると部屋が恐ろしいことになるので困るんですよね。ワトソンさんは諦めてるようですし」
「それを見かねてあなたが手を出すからでは?」
「下宿の管理者としてあの部屋を見過ごすのは出来ません」
話しながらお茶の用意が済むとサッとワゴンごと奪われて、歩いていく桃介の後を追いかける。
手際よくテーブルにアフタヌーンティーの支度をする姿を見守り席につくと、こちらもどうぞとチョコクリームが並ぶ。
「クローテッドクリームもいいですがチョコクリームを添えるとより美味しいかと」
「桃介さんはチョコレートがお好きなんですね」
「ええ。とても効率がいいので」
効率と、以前も聞いたがやはり常備されているところを見ると単純に好きなのだろうと、くすりと微笑む。
「おかしいですか?」
「いえ、確かにチョコクリームも美味しいです」
これなら紅茶に砂糖は不要だろう。これも彼に言わせれば「効率がいい」のか。
「芽衣さん。どうしてこの茶葉を選んだのですか?」
「先程桃介さんが淹れてくださったので、お好きなのかと思ったんです。あ、他のものの方が良かったですか?」
「いえ、こちらで結構。……あなたはやはり優秀ですね」
ホームズたちが相手なら彼らの好みに合わせるのだが、桃介とは初めてだったので先程の紅茶と同じものを選んだのだが大丈夫だったらしい。
「今度はチョコレートに合うお茶を淹れますね」
「それは楽しみですね」
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