あの日の約束を今ここで

アシュ千17

「千尋っ!」
名前を呼ばれ振り返った瞬間、目の前が紅に染まった。
苦痛に顔を歪ませ、崩れ落ちた豪奢な身体に千尋の思考が一瞬停止する。
しかし、力なくもたれかかったその人の重さを感じた瞬間、千尋は悲鳴を上げた。

「アシュヴィン~~~っ!!」

 * *

辺境の地を視察していた皇一向を襲った叛徒に、不意をつかれた千尋を庇って負傷したアシュヴィンは、昏々と眠り続けていた。
治療している間もずっと傍を離れず、寝台の横で寄り添う千尋の顔は悲壮そのもので、彼女の身体を心配してリブが何度も休むように促したが、頑として首を縦には振らなかった。

仕方なしに寝所に食事を運ぶが、それさえもほとんど口には入っていなかった。
千尋の方が心労で倒れてしまうのではないかと危惧しだした2日目の夕方になって、ようやくアシュヴィンに変化が見られた。
気だるげに開かれた瞼に、千尋が慌ててアシュヴィンを覗き込む。

「アシュヴィン! 気がついたのね!!」
「……ここは……」
「リブ! 遠夜!!」
千尋の呼ぶ声に、程なく二人が現れる。

「陛下! お気づきになられたのですね」
「リブ……」
自分の状況がつかめないアシュヴィンは、信頼を寄せる部下を見つめ眉をしかめる。
アシュヴィンの怪我の様子を診ていた遠夜は、千尋を振り返るとそっと微笑んだ。

『傷は浅い。血も止まっている……もう大丈夫』
「ありがとう、遠夜」
目の端に滲んだ涙を指で拭うと、千尋は笑顔でアシュヴィンを振り返った。

「アシュヴィン。具合はどう? 傷は痛まない?」
汗で額に張りついた紅の髪を拭おうと伸ばした瞬間、その手は荒々しく払われた。
驚きに動きを止めた千尋を、アシュヴィンは鋭い眼光で睨みながらリブに問う。

「ずいぶんと馴れ馴れしいがお前は誰だ?
リブ、俺はどうしてこんなところで寝ている?」
「陛下?」
苛ただしげに身を起こそうとして、痛みに顔を歪めたアシュヴィンに千尋が支えようと手を伸ばすが、再び払われてしまう。

「気安く俺に触るな」
「アシュヴィン……?」
「陛下っ」
「リブ、状況を報告しろ。なぜ俺は傷を負っている? どうして俺を『陛下』と呼ぶんだ?」

どこかおかしいアシュヴィンの様子に、千尋が戸惑いながら遠夜を見つめた。 その視線を受け、遠夜が顔を曇らせる。

『頭に受けた傷の衝撃で、アシュヴィンは記憶を喪失しているのかもしれない』
「記憶……喪失?」
遠夜の言葉に呆然とアシュヴィンを振り返ると、冷ややかな視線とぶつかる。

政略結婚から始まった二人だったが、少しずつ心を通わせ合い、今では真実想い合う仲となっていた。
しかし今千尋に向けられるアシュヴィンの瞳には、恋情は一切消えていた。
あるのは、突然現れた者に対する警戒心と嫌悪。
アシュヴィンが倒れてからずっと気を張り詰めていた千尋は、ふらりと身を傾がせると、崩れるように意識を失った。

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