前日の宣言通りに記憶を失くしたまま執務に復帰したアシュヴィンは、周囲の心配を他所に滞りなくこなしていく。
彼の傍らには、今までと変わりなく政務に励む千尋の姿。
昨日、二人が寄り添って戻った姿を見た時、リブは驚いた。
記憶がないと千尋の存在を訝しんでいたアシュヴィンと、夫への気遣いと傷心から離れようとしていた千尋。
そんな二人に起こった変化。
前のように仲睦まじいとは言い難いが、それでもアシュヴィンの棘々した空気は消えていた。
千尋の顔にも笑顔が戻っていた。
それだけでも、リブは十分に喜ばしいことだった。
「陛下、これで今日の執務は終わりです」
「そうか」
最後の書簡に目を通すと、必要な指示を与えアシュヴィンは首を回した。
ちらりと横に視線をやると、同じく千尋が書簡に目を通しながらペンを走らせていた。
「中つ国で何かあったのか?」
「え? あ、ううん。いない間の諸問題の指示を書いてるだけよ」
文面に目をやるも、中つ国の文字を読めないアシュヴィンにその内容は分からない。
「もう少しで終わるから、アシュヴィンは先に休んでて? 復帰したばかりなんだから、無理してはダメだからね」
苦言を呈す妻に、アシュヴィンがふんと鼻を鳴らす。
「俺がこれぐらいで参るはずがなかろう? だがせっかくの妃殿の忠告だ。素直に聞いておくことにしよう」
つかつかと踵を鳴らしながら執務室を出て行ったアシュヴィンに、千尋とリブはため息をついた。
「相変わらずなんだから」
「まあ、皇が元気であるのは喜ばしいですから」
「……そうね」
リブの言葉に、千尋が苦笑を漏らしながら頷く。
記憶の戻っていないアシュヴィンが執務を行うためには、今までの出来事を再度頭に叩き込まなければならなかった。
それゆえ、昨日はほとんど寝ていないことを千尋は知っていた。
「本当に頑固なんだから……」
これ以上の負荷がかからないようにとの配慮を一蹴して、独断で執務に復帰したアシュヴィン。
彼の兄であるナーサティヤは、そんなアシュヴィンに眉をしかめ呆れていた。
「どうすれば記憶は戻るのかな?」
「エイカも土蜘蛛に伝わる秘術を調べてますが、脳という繊細な部位ゆえ、軽々しく出来ないようで」
エイカは遠夜同様、常世の国の土蜘蛛で、医術に長けたものだった。
そんな彼らにも『記憶喪失』は手に負えないものだった。
アシュヴィンが怪我をしたことを公に出来ないゆえ、情報を集めることもままならない。
千尋はため息を漏らすも、そこに昨日までの悲痛な面持ちはなかった。
碧の斎庭でのアシュヴィンとの思いがけない出会いが、暗い迷い道に一条の光を差し込んだからだ。
「もしもアシュヴィンの記憶が戻らなくても……」
千尋の呟きに、リブが彼女を見る。
そんなリブに眩い笑顔を向けた。
「それでも私がアシュヴィンを愛してることは代わらないわ」
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