あの日の約束を今ここで-4-

アシュ千17

丸一日ベッドで過ごしたアシュヴィンは、首を回し肩を鳴らした。
記憶を喪失する元となった頭の傷はさほど痛みを感じないが、相変わらず頭に靄がかかっている感じは抜けない。
そのことに苛ただしげに舌打つと、碧の斎庭へと足を向けた。
廊下を抜け、そこへ足を踏み入れようとしたところで、アシュヴィンは立ち止まった。
そこには先客がいた。

すらりと細い肢体を清楚なドレスでくるんだ、眩い金の髪を持つ女。
それは、目覚めた時真っ先に目に入った『千尋妃』だった。
思いがけない対面に躊躇っていると、気配に気づいた千尋が振り返った。
アシュヴィンの姿を見るや、可愛らしい相貌が緊張に強張る。
そんな千尋に、アシュヴィンは動揺を隠して歩み寄った。

「これは……我が妃殿もいらしてたのか」
「…………」

王族しか入ることの出来ぬこの碧の斎庭にいることは、彼女が確かに自分の后妃であるという証明だった。
だが、アシュヴィンの他人めいた響きを感じたのだろう、千尋はきゅっと唇を噛んで俯いた。
逡巡する間を置いて、千尋がおずおずと口を開く。

「……傷は……もう大丈夫なの?」
「ああ。かすり傷だ。もう塞がってる」
ふっと笑うと、千尋の強張っていた頬がわずかに緩む。

「良かった……ごめんなさい」
安堵の後の呟きに、アシュヴィンは眉をしかめる。
千尋はかすかに肩を震わせながら、蒼の双眸を揺らめかせた。

「ごめんなさい……私のせいで怪我を……」

アシュヴィンが怪我を負ったのは、後れを取った千尋を庇ってのことだった。
それをアシュヴィンはリブから聞いていた。
聞いた時にはまず、自分の身を投げ出してまで庇おうとする女が傍にいたということに驚いた。

目の前に立つ千尋は、確かに美しい女だった。
陽の光のような金の髪に、澄んだ空を映したかのような蒼の瞳。
だが、その弱々しい瞳はアシュヴィンの好きなものではなかった。
どうしてこんな弱々しい娘を自分は后妃になど迎えたのだろうか?

アシュヴィンは常に自分が王族であることを意識していた。
自分が皇になってもならなくても、国政には深くかかわるであろうから、国を一番に考えられるような、芯の強い国のためになるような女を選ぶはずだったのだ。
一度滅んだとはいえ、いまだ中つ国を慕うものは多く、そういう意味ではこの結婚は有益なものなのだろうが――。

一瞬『政略結婚』という言葉が頭に浮かぶが、すぐに否定した。
もし千尋との結婚が政略結婚であったのならば、己の身を危険に晒してまで彼女を守るはずはないのだ。
埋もれた記憶にイライラしていると、その気配を感じた千尋は躊躇いがちにそっとアシュヴィンの頬に触れた。
びくんと身を強張らせるアシュヴィンに、千尋は労わるようにふわりと微笑む。

「……大丈夫だよ。遠夜もいてくれるもの……きっと思い出せるから……」
自分自身に言い聞かせるような千尋の声色に、気づくとその身体を抱きしめていた。
驚く千尋に、アシュヴィン自身も驚きを隠せない。

(なぜ俺はこの女を抱きしめてる?)

自身に問うが、答えは見つからない。
ただ、泣きそうな彼女を放っておけなかった。
彼女の涙は見たくないと、そう思った。

「すまん……」
小さく謝罪すると、千尋が腕の中でふるふると首を振る。

「いいの……アシュヴィンはやっぱりアシュヴィンだから」
返ってきた言葉に、アシュヴィンが首をひねる。 そんなアシュヴィンに、千尋はふふっと微笑んだ。
胸に甦るアシュヴィンの言葉。

『泣くなよ……お前に泣かれるとどうしていいかわからなくなる。お前の涙は……見たくないんだ』

「忘れてても……やっぱりアシュヴィンはアシュヴィンなんだって、そうわかって嬉しかったの」

花開くような笑顔をむけられ、アシュヴィンの鼓動がどくんと高鳴った。
その瞳は先ほどとは違い、瑞々しく輝いていてアシュヴィンの心を激しく揺らす。

「まだ完全には癒えてないんだから、無理しないで。戻りましょう?」
心配そうに見つめる千尋に、抱きしめた腕を緩めると、並んで宮殿の中へと戻って行った。

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