あの日の約束を今ここで-3-

アシュ千17

客間の一室で、千尋は深いため息をつく。
先程終わった緊急会議で、当面の執務は千尋とナーサティヤが代行し、アシュヴィンの怪我は外部へ漏らすことを一切禁じた。
まだ安定したとはいえない常世の国での皇の負傷は、新たな戦火を生みかねなかったからである。
皇妃として取るべき行動を済ませた千尋は、そのままアシュヴィンと同じ寝室に戻るわけにもいかず、倒れた際に運ばれた客間にいた。
今日からしばらくは、ここで生活することになるのだ。

「もしかしたらずっと……かもしれないけど」

ポツリと漏れた呟きが、静かな室内に寂しく響く。
アシュヴィンの記憶から自分という存在が失われた以上、今までのように彼の傍にいることは不可能だった。
――もしもこのまま、アシュヴィンの記憶が戻らなかったら?
必死に奥に隠しこんだ不安が頭をもたげる。

「そんなの……やだよ……っ」

漏れた呟きと共に一粒、雫がこぼれ落ちる。
それは一つ、また一つと、床に小さなしみを作っていった。
自信たっぷりで、いつでも千尋よりずっと先を見通し、悠然と構えていたアシュヴィン。
それを悔しいと思いつつも、そんなアシュヴィンが千尋は大好きだった。

「どうして私だけ……?」

失われた記憶はちょうど千尋と出会う直前頃から。
それ以前よりかかわりのあった兄のナーサティヤや、長年仕えているというリブのことは当然覚えていた。
この常世の国で、一人だけアシュヴィンの記憶から消されてしまったのである。
そんなことを羨んでも仕方のないことだと分かっているのに、それでも「なぜ自分だけ?」という思いが拭えない。

「アシュヴィン……っ」
すすり泣く声は、誰もいない室内に寂しく溶けていった。

 * *

その頃、アシュヴィンは今までの記録を読み漁っていた。
自分の記憶が失われているなどと、にわかには信じがたい話であったが、いつも憎々しく天に陣取っていた黒き太陽は消え、失われたはずの緑が甦っている光景を前にしては、認めざるをえなかった。
ひとしきり目を通し終えたアシュヴィンは書簡を枕元に置くと、大きく息を吐いた。

「……お前やサティの言っていたことは真実のようだな」
「はあ」
「『あいつ』はどうしてる?」
「あいつ、とは『皇妃』のことですか?」
問い返すリブに、アシュヴィンが顔をしかめる。

「倒れて別室に運ばれたきり、顔を見せないとはどういう了見だ? 己を忘れた夫に愛想を尽かしたか?」
ふん、と嘲る響きにリブが眉を寄せ否定する。

「皇妃がこちらに来られないのは、記憶を失われたあなたを刺激しないように気を遣われてのことですよ」
あまり感情を表に出すことがない側近の珍しい様に、アシュヴィンは驚いたように目を瞠る。

「珍しいな。お前がそんなに肩を持つなど……」
アシュヴィンの言葉に、リブは小さく息を吐いて見せる。

「……皇も記憶がお戻りになられれば分かりますよ」
「……ちっ」
棘を含んだ側近の言葉に、アシュヴィンが面白くなさそうに枕に頭を沈めた。

書簡の中にも何度も出てきていた『千尋妃』という言葉。
そこに書かれている彼女は、復興した中つ国の女王でもありながら、常世の国の政にも深く関与していた。
そこまで関わらせていたということは、それだけ自分が信用していたということだった。

(それほどの者を俺は忘れているというのか?)

脳裏に甦る、驚き見開かれた蒼の瞳。
その瞳はアシュヴィンの反応に驚き、そして深く傷ついていた。

(夫に突然忘れられたとなれば、傷つくのも当然……か)

自分が妻を娶っていたということも驚きだったが、それがかつて滅ぼした中つ国の新しい女王であるということが、さらにアシュヴィンを驚かせた。

「遠夜……俺はいつまでこうして寝てればいいんだ?」
枕元に控えていた土蜘蛛に声をかけると、声にならない声で彼が答える。

『お前の傷はもう塞がっている。動くのに支障はない……』
「そうか」
了承を得ると、アシュヴィンはベッドから身を起こしてリブを見た。

「明日から執務に復帰する。任せたぞ」
「皇……!」
慌てるリブを残し、アシュヴィンは外に出ていった。

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