清盛を封じ、戦が終焉したあの日。
望美が願ったのは元の世界へ戻ることではなく、ヒノエの元で生きることだった。
「うわ~!」
眼前に広がる海原に、望美は歓声を上げた。
青く晴れ渡った空に、紫苑の髪が踊る。
「そんなに海は姫君の目を惹くかい?」
「だってこんなふうに船旅をしたことなんてないもの」
近寄ってきたヒノエに笑顔を返す。
戦の時に船に乗ったことはあったが、あの時はこんなふうに景色を楽しむような余裕などなかった。
それにヒノエとの熊野までの船旅は、望美にとって喜びに満ち溢れたものだった。
そう――あの日、望美はこの世界に留まり、ヒノエの傍にいることを選んだ。
元の世界との決別は、両親や友達との永遠の別れ。
彼らに会えなくなることが辛くないわけではなかったが、それでもヒノエと離れることはどうしても出来なかった。
「……寂しい?」
わずかに翳った望美の顔に、ヒノエが背中からそっと抱き寄せる。
そんなヒノエに、望美は首を振って笑顔を向けた。
「寂しくないって言ったら嘘になるけど……でも後悔はしてないよ。私はヒノエくんの傍にいるって決めたから」
向けられた笑顔はとても眩くて、自分の願いで彼女をこの世界に引き止めたヒノエの罪悪感をも包みこんで癒していく。
「ありがとう。お前が俺の為に捨てた全てのものの代わりになるよ」
甘い吐息と共に触れた唇に、望美が顔を赤らめる。
「ヒ、ヒノエくんっ!」
「お前は本当に可愛いね」
辺りの水軍衆を気にしてヒノエの腕から逃げようとする望美を、しっかりと腕の中に捕らえて離さない。
「照れてる余裕なんてないぐらい、これからは毎日お前に愛を囁くから覚悟しておきなよ?」
片目を瞑って告げられた言葉は本気で、望美はますます顔を赤らめた。
* *
ほどなくして着いた熊野では、盛大な歓迎を受けた。
それは“白龍の神子”としてではなく、“熊野別当の花嫁”としてで、望美は嬉しさに隣に立つヒノエを見つめ微笑んだ。
ヒノエが花嫁を連れ帰ったという話は、あっという間に熊野中に広がった。
別当の結婚ということで祝福に訪れる者は後を絶たず、熊野へやってきてから四日が過ぎた頃には、さすがの望美も疲労していた。
皆が祝福してくれるのはもちろん嬉しいし、別当というヒノエの立場上、周囲の者がこぞって駆けつけるのは当然だと理解しているが、清盛との戦いが終わってすぐに熊野に連れてこられ、休む間もなく連日長蛇の列の相手では、ため息のひとつもこぼれるというものだった。
結婚前でこれなのだから、結婚の儀の当日はどうなるのだろうと、かすかに不安がよぎる。
「憂い顔でどうしたんだい?」
突然の声に驚いて振り返ると、そこにはここ数日祝賀の席に同席している時以外は、まともに会話を交わしていなかったヒノエの姿。
「ヒノエくん。お仕事終わったの?」
「ああ。せっかくお前を熊野に迎え入れたのに、ゆっくり話す時間もなくてすまなかったね」
申し訳なさそうに微笑むヒノエに、望美は首を横に振る。
彼の立場は分かっているから、今の状況にも文句を言う気はなかった。
「大丈夫だよ。それよりもずっと忙しそうだけど、ヒノエくんは疲れてない?」
慣れない土地で自分の方こそ疲れているだろうに、真っ先にヒノエを気遣う望美に、愛しさがこみあげる。
「ヒ、ヒノエくん!?」
「お前を抱きしめてると疲れもとぶね。――着いて早々の騒動もようやく一段落ついたから、明日は熊野散策に行こうか?
熊野のいい所を沢山知ってもらいたいからね」
「え? いいの?」
「もちろん」
ヒノエの誘いに望美は瞳を輝かせる。
ヒノエが何よりも大切にしている場所でもあり、これから一生を過ごす所でもある熊野を、もっと知りたいと思っていたのである。
「じゃあ、今夜は早めに寝なよ? 明日は朝から歩き回るからね」
「うん! おやすみなさい」
元気に頷くが、慣れない場所で心細いのだろう、寂しさが一瞬浮かんだ。
そんな望美の様子に気づくと、そっと近寄り耳元で囁く。
「俺に添い寝して欲しい?」
「い、いい!」
「つれないね。俺はこんなにもお前に触れたいと思っているのに」
顔を真っ赤に染めて慌てる望美に、ヒノエは髪を一房手に取り口づける。
剣を持たせたら戦女神としてめざましい戦功をあげてきた望美だったが、恋愛に関しては経験が少ないであろうことは共に行動していてわかっていたので、せめて結婚の儀がすむまでは触れずにいようと、内心決意していたのだが。
しかし、こんな可愛らしい仕草を見せられては、理性が揺らぐのも仕方がなかった。
「お前は俺に触れたくならない?」
髪に口づけながら妖艶に微笑むヒノエに、望美の鼓動が高鳴る。
彼が何を欲求しているのかはわかっていた。
だけど男性経験はおろか、まともに付き合ったことさえない望美は、この急な展開についていけずにいた。
魅入られたように固まっている望美の顎に触れると、そっと口づける。
そのままやわらかな口中を貪りたい衝動をぐっと抑え、ヒノエは唇を離した。
「お前は本当に可愛いね」
ぺろりと唇をなめて微笑むヒノエに、望美がぼっと顔を赤らめる。
「も、もう寝るから出てって!」
「はいはい。姫君の機嫌を損ねて天に帰られては困るからね。おやすみ。良い夢を」
傍らの枕を抱きしめ叫ぶ望美に、ヒノエは笑いながら部屋を出る。
そうして廊下を歩きながら、甘い唇の感触を思い出して苦笑した。
「本当に罪な姫君だね」
口づけで灯った熱を持て余しながら、ヒノエは自室へと引き上げていった。
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