初心

弁望31

弁慶と男女の関係がないことを今まで気にしなかったわけではないが、初めて故にその先を恐れていた望美。
そんな望美を、初めて弁慶は女として求めるそぶりを見せた。
けれども望美がそうしたことへの恐れを見せると、待つと言ってくれた。
それは大切に思ってくれるからで、とても嬉しかったのだけれど。

『別の手もありますし、ね』

そう告げた弁慶の策士の顔に、望美は余計に恐れを抱いてしまった。
そんな望美の様子に、弁慶が気づかないわけもない。
今日も夕飯の後、そそくさと逃げるように片付けに行ったまま、なかなか戻ってこない望美にため息を漏らす。

(どうも余計なことを言ってしまったようですね……)

動揺する望美があまりにも可愛くて、つい苛めてしまったのだが。
初心な望美には刺激が強すぎて、結果避けられる羽目に陥っていた。
朝夕同じ家にいながら避けられるのは、さすがの弁慶も堪えた。
これが京邸に住んでいた頃なら、何かと理由をつけて距離を置くことも出来たのだが、結婚した今となってはそれも無理な話で。
よもや京邸に里帰り(?)でもされたら、二度と
返してもらえなさそうだと、逡巡の後に弁慶は洗い物をする望美の後を追う。
今までならてきぱきとこなして、少しでも早く
自分の元へ戻ろうとしていた望美だが、今はぼ~っと生気のない瞳で、機械的に洗い物をしていた。
その姿に、弁慶の胸に申し訳なさが溢れてくる。

「望美さん……」
「ひ……ッ……べ……弁慶さん?」
突然の背後からの呼びかけに、夫への反応とは
思えない小さな悲鳴を上げ、望美は引きつった笑みを返す。

「……すみません。この前は戯言が過ぎてしまいましたね。君をそのように怯えさせるつもりはなかったんです」

素直に詫びる弁慶に、望美が戸惑ったようにその顔を見る。

「君の反応が可愛くて、つい苛めてしまいましたが、あの時言ったように君を怖がらせたくないんです。それなら僕はもう、君を求めません」

望美のために自身を戒める弁慶に、望美は自分の不条理な振る舞いに涙が零れ落ちた。

「私の方こそ弁慶さんのこと、避けたりしてごめんなさい……。私、弁慶さんの奥さんなのに、そんなこと言わせちゃうなんて……」

謝るべきなのは望美の方。

「本当は私のわがままなのに……弁慶さんに我慢させてるのは私なのに……それなのに、そんなふうに謝らせてしまって……本当にごめんなさいッ」
全ては望美の幼い心ゆえ。
結婚して、そのくせに男女の関係を持つことを怖いと拒否する望美の方こそ悪いのだ。
押し寄せる罪悪感に、望美の瞳からぽろぽろと
涙が零れ落ちた。

「泣かないで。君は悪くない。君は僕を選んで、この世界に残ってくれた。そのことだけで十分なはずなのに、それ以上を望んでしまう僕が悪いんです」
「弁け……さ……ッ」

ふるふると、弁慶の言葉を否定し続ける望美を
抱き寄せて、いたわるように掌が髪を撫でる。
そうして望美が泣き止むまでずっと、弁慶は彼女の髪を撫でてくれていた。
涙が止まった顔をあげると、あの日からどこか
怖く感じていた弁慶を見つめる。
今は前のように穏やかに見ることが出来た。

「ああ……ようやく泣き止んでくれましたね」
「ごめんなさい、弁慶さん」
「謝らないでください。全ては僕の不徳が招いたことなのだから」
「そんなこと……!」

また自分を責める言葉を繰り返そうとする望美の口を、弁慶の指がそっとさえぎる。

「もう言い合いはなしです」
ね、と優しく促され、望美も口をつぐむ。
そっと頬に添えられた手に、自然と弁慶を見上げた望美の唇に、優しいぬくもりが重なる。
一瞬驚くが、その口づけがとても優しく、大切にしたいという弁慶の思いが伝わってきて。

「すみません。また怖がらせてしまいましたか?」
唇を離し、心配そうに覗き込む弁慶の瞳に、望美はぶんぶんとかぶりをふった。

「ううん、怖くない。怖くなんてない。
……とても幸せだった」
先ほどのぬくもりを思い出すと、胸がほんのり
温かくなった。
それは羞恥からではなく、好きという想いが満たされてだった。

「好きな人とのキスって、とても温かい気持ちになるんですね」

「キス……? ああ、口づけのことを望美さんの世界では、そういうのですね。僕も初めてです。こんな幸福な気持ちを感じたのは」

「弁慶さんも?」

「ええ。僕はあまり幸福と言うものを感じたことはないのですが……望美さんが僕を選んでこの
世界に残ってくれた。その時と同じくらい、幸福を感じます」

「……そっか。触れ合うのってこんなに幸せなことなんですね」

満ち足りた気持ちに、望美の顔に久方ぶりの笑顔が浮かぶ。
そんな望美の笑顔に、弁慶の心も温かくなる。

「本当に……君はいけない人ですね。君の行動が、こんなにも僕を振り回す。そんなことが出来るのは望美さんだけです」

「じゃあ、おあいこかな?」

ふふっと笑みを漏らす望美に、弁慶もつられて
笑みをこぼす。

「……愛しています。望美さん」
「私も……弁慶さんが好き……愛してます」

どちらからともなく、唇を重ねる。
それは初心者マークの望美にあわせた、とても
ソフトな口づけであったが、それでも弁慶は不思議と穏やかな自分の気持ちに驚いていた。

(僕にもこんな穏やかに人を愛することが出来るのですね)

今まではただ一方的に抱くことしかなかった女性との関係。
彼女たちは性のはけ口でしかなく、一夜限りの
相手に気遣いなどする気は毛頭なかった。
彼女たちもまた、弁慶に求めていたのは甘い囁きではなく、激しく身を揺さぶる快感だった。
それが、望美をただこうして抱き寄せている……それだけで、今まで得られなかった満ち足りた
思いを感じていた。
愛しい。 その想いが胸の奥から溢れてくる。

「もう少しだけ……待っててください。
絶対、弁慶さんのこと……受け入れられるようになりますから」
健気な言葉に、抱き寄せる腕に力がこもる。

「嬉しいです。君が……僕の妻で良かった」
本心からの言葉に、望美の心は温かさが溢れていた。

→2へ続く
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