策士

弁望30

「ふう……」
洗い物を終えると、望美は長い髪を一つに束ねていた紐を解く。
清盛との戦いに勝ち、無事白龍も力を取り戻すことが出来たが、望美は自分の世界へは帰らずに、弁慶の傍で生きることを決めた。
それは自分の世界との決別。
こちらの世界に残るということは、父や母・友達とももう会えないということだった。
それでも、弁慶の傍にいたいと思った望美は、
軍師をやめて薬師として働く弁慶の妻として、彼と共に過ごしていた。

「弁慶さん?」
作業部屋を覗くと、調剤道具を片付けていた弁慶が振り返る。

「ああ、望美さん。すみません、一人で片付けさせてしまって」

「大丈夫ですよ。弁慶さんはまだお仕事終わらないんですか?」

「僕も今、終わったところです」

きちんと整えられた棚に道具をしまって微笑む
弁慶に、望美の顔にも笑みが浮かぶ。
白龍に連れてこられたこの世は、源氏と平家が
争っていた。
一度は死に別れ、すべてを失った望美は白龍から託された逆鱗で時空を超え、みんなが……弁慶が生きる未来をつかみ取った。
今、ここには幸せがあった。

「僕も幸せですよ」
望美の考えを読み取ったように呟くと、弁慶は
彼女の手を取り、胸の中へと引き寄せた。
全身を包み込む弁慶の温もりに、望美はくすりと笑みを漏らす。

「初めは弁慶さんのこと、ちょっと怖いな~って思ったんです。いつも笑顔なのに、本心が全然見えないんですもん」

「そうですか? 僕はいつも本当に思ったことを口にしていましたよ」

「そうですね。さらりと口説いてました。……弁慶さん、結構女慣れしてますよね?」

じと~っと抗議を含んだ視線に、弁慶はふふっと口端を吊り上げた。

「でも本当は、誰よりも優しい人……自分を悪者にしてみんなの幸せを願ってる、やさしくて悲しい人」

熊野で平家を壊滅させる時、優しい嘘で望美を
遠ざけた弁慶。
どうしてこんなひどいことを……と、あまりの
惨状に我が目を疑った。
それでも、弁慶は戦乱の世を誰よりも良く知っていた。
一時の感傷が大きな災いを招くことがある。
だからこそ、それを見過ごせない望美が傷つかないように、自分ひとり汚れ役を買って出たのだ。

「君が知っているように、僕は酷い人間です。
優しくなんてありません」

「ううん、そんなことない。私は知ってるもの。だからそんなこと言わないでください」

弁慶の心の傷をいたわるように、背中に腕を
回し、抱きしめる望美に愛しさが溢れてくる。

初めて望美を見た時、とっさに考えたのはどう
利用すればいいか。
神子と呼ばれている、可愛らしくはあるがどこにでもいそうな普通の娘。
けれど共に行動しているうちに、次第に心惹かれている自分に気がついた。
みんなを守りたい―そう言って手に豆を作りながら剣を振るい、気丈に目の前の出来事に立ち向かっていった望美は、嘘で塗り固め、本心を隠す
弁慶をいつでもまっすぐに見つめ返してきた。

多くの屍を踏み越えてきた償いに、その命を差し出すつもりだった弁慶を引き留め、彼が償わなけれならない咎を共に正し、切り開いてくれた。
そんな彼女を、元の世界に帰すことなど、考えられなかった。どれほど罪深くてもその手を、存在を求めずにはいられなかった。

『ここに……僕の傍にいてくれませんか?』

乞うてはならない願い。しかし彼女は微笑んでかなえてくれた。
そして今、隣に望美がいる。
こんな幸せを感じる日が来るなど考えたことも
なかった。
守りたい。大切にしたい。
愛しい気持ちは、どんどん溢れていた。

「――そういえば、もう湯浴みは済ませましたか?」

突然の問いに、望美はきょとんと弁慶を見る。
この世界は望美がいた世界のように湯船につかる風呂は珍しく、湯を張った桶に布を浸し、身体を拭って綺麗にする沐浴が主だった。

「片付けを済ませてすぐに弁慶さんのところに
来たのでまだです」
「それなら……」
「そうだ! たまには弁慶さんの身体を拭いて
あげますね」
「望美さん?」

とんでもないことを言い出す望美に絶句する。
愛おしさに耐えられなくなり、離れる口実にと
湯浴みを勧めたのだが、逆に事態を悪化させてしまったのである。
困った表情を浮かべる弁慶に気づかずに、望美は湯を入れた桶を持ってきて彼を振り返った。

「さあ、脱いでください。背中から拭きますね」

望美にしてみれば、今日一日の労いのつもりでやっているのだろう。
そんな無垢な姿につい、悪戯心が芽生えた。

「……そうですね。せっかく望美さんがそう言って下さるのなら、お願いしましょうか」

言うなり着物をはだけさせた弁慶。
中性的な、どちらかといえば柔らかな印象のある弁慶の広い肩や、しっかりと筋肉のついた腕に、望美は突然目の前の人が男の人であることを感じた。
考えてみれば望美が弁慶の身体を見るのは、これが初めてだった。

知らず見惚れていたことに気づくと、慌てて布を絞り背中を拭う。
一気に熱の集まる頬。ここにきて、ようやく自分がとんでもなく大胆なことをしていることに気がついたのである。
恥ずかしさにこの場から逃げ出したくなるが、
自分から申し出た手前、そうすることも出来ず、赤い顔を見られないように俯きながら手を動かす。

二人は夫婦として共に暮らしていたが、その実
まだ“清い関係”であった。
望美とて結婚した男女がする営みを知らぬわけではなかったが、今までお付き合いさえしたこともなく、いくら弁慶のことが好きとはいえ、その先に進むことは正直怖くもあった。
そんな望美の心中を察したのであろう、弁慶も
求めてくることはなかった。
だから、こんなふうにじっくり彼の身体を見たのは初めてだったのである。

(普段の穏やかな物腰からは想像できないな~)

程よく筋肉がついた腕。
この腕があの長刀を振るっていたのだと思うと、感慨深くもあった。

「そんなに見つめられるとさすがに照れますね。僕は頭ばかり働かせているので、軟弱で恥ずかしいです」

「そ、そんなことないです! 腕も背中もすごく力強くて、男の人なんだって思ってたんです」

肩をすぼめてみせる弁慶に、望美は慌ててぶんぶんと頭を振ると、穏やかな声が問いかけた。

「望美さんは僕が怖いですか?」
「え? 怖くなんてないですよ」
唐突な問いに、一瞬目を白黒させるが、すぐに
先ほど自分が言った話のことだと気づき、慌てて否定する。

「始めの頃は会ったばかりで弁慶さんのこと良く知らなかったから、そんなふうに思ったりもしましたけど……今は怖いなんて思ってないです」

「そうですか? 君は怖がってると思いますけどね」

なおも食い下がる弁慶に否定しようとした瞬間、頬を撫でた指。
ゆっくりと、けれど普段とは違う艶めいた所作に、驚きと不安が沸き起こる。

「……ん……っ」
流れるように口づけられて、鼓動が一つ跳ね上がる。
弁慶と口づけを交わしたのは初めてではないが、それほど多くもない。
柔らかく食んでいた唇が離れて、そっと耳元に
触れた瞬間、望美は肩を大きく震わせた。

「……怖いですか?」
「あ、あの……だって、いきなり……私……何も知らなくて……ッ」

動揺して逃げ出そうとする望美の腕を掴むと、
ぐいっと引き寄せる。
バランスを崩して倒れ込んだ望美は、背中に当たる異物に身をこわばらせた。
怯えたように身体を震わせる望美に、弁慶は苦笑いをこぼす。

「大丈夫です、君が嫌がることはしません。
君がまだ怖いと言うなら、僕は待てますよ。ただ、君を愛しているんだと言うことを知って欲しかっただけです」

「べ、弁慶さん……?」

半分パニック状態に陥っている望美には、弁慶の言わんとしていることが理解できず、怖々と彼を見上げた。

「君を怖がらせたくない。愛しているから大切にしたい。でも、そう君を想うからこそ君を求めたくなる。それを知っていて欲しいんです」

彼は望美の心がまだ幼く、結婚と言う事実に心が追いついていないことを分かっていた。
だから今のように欲しても、彼女が望まなければ無理強いはしないと、そう告げてくれたのだ。

「……ごめんなさい、弁慶さん」
「謝らないでください。いつか君が僕の想いに応えてくれるのを気長に待っていますよ」
「うん……」

申し訳なく俯いてしまった望美に、弁慶は着物を羽織ると彼女をそっと抱きしめた。

「大丈夫ですよ。いつか君の怖さも拭ってみせます。それに、あまり待たされるようなら、別の手もありますし、ね」
「べ、弁慶さん!?」
「ふふふ……冗談ですよ」

妖しく微笑む弁慶が、けれど何かしらの策を考えていることはうかがい知れて、望美は一抹の不安を覚える。
策士健在。
そんな言葉がよぎった望美だった。
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