深夜――。
寝所を出た朔は庭に降り立つと、一人空を見上げた。
今日は朔月。
月の輝きのない空は闇に覆われていた。
そっ、と胸に手をあてる。
黒龍を失ったあの日から、朔の心には消せぬ深い傷が刻まれた。
だけどその痛みすら、大切なあの人に繋がるから。
心を凍らせ、他の人を立ち入らせず、痛みと共に生きてきた。
だけど―――。
「神子」
闇の中から聞こえた声に、朔は驚き奥を見た。
そこには闇よりも深い、しかしその存在を飲み込まれることなく佇む漆黒の少年がいた。
「黒龍。どうしたの、こんな遅く?」
「神子の声が聞こえた」
「私の?」
こくりと頷く少年に、朔は困惑した。
目の前にいるのは、京を守護する龍神の半身。
朔の愛した黒龍の新しい姿だった。
「神子の……泣き声……私を――前の龍を求める声が」
「っ……!!」
少年の言葉に呼吸が止まる。
「私……は……」
何とか紡ぎ出した声は、しかし震えていた。
「私はあなたの愛した龍ではない。だが私は私の神子を……あなたを愛しいと思う」
「黒龍……」
「あなたの苦しみを取り除きたい。だが私ではあなたを癒せない……」
少年は年若き自分に悔しさを滲ませる。
そんな彼を、朔は抱きしめた。
この子は私を愛した――私の愛した龍とは違うかもしれない。
だけど、私を神子と呼んでくれる。
触れることが出来る。
「いいえ。あなたは暗い闇に沈んだ私を救い出してくれたわ」
「私は……」
「あなたは黒龍。黒龍だわ」
朔の想いが分からず、少年は困ったように彼女を見る。
その姿にかつての龍の面影が重なって。
違うけれど同じなのだと、ふわりと心が温かくなる。
幻でも会いたいと、そう望み求めていた。
だけど、あの人は厳島で消えてしまった。
だけど……残っている。
消えると言った思慕の念が。
瞳に、声に、過去の想いを感じるから。
「私は今、幸せよ」
「何故だ?」
「あなたが……黒龍が傍にいるから」
朔の言葉に少年は戸惑う。
だけど、それは偽りじゃないの。
未来は続くのだと信じられるから。
以前は自分が見上げていたのに、今は彼の方が自分を見上げてる。
そのことが可笑しくて、くすくすと肩を震わす。
「な、なぜ笑うのだ」
「ごめんなさい。嬉しくて」
顔を赤らめそらす仕草が愛しくて、朔はもう一度その小さな身体を抱きしめる。
誰よりも愛しいあなた。
幻でもいいから会いたいと思っていたその願いは叶い、今あなたはここにいる。
だから、もう泣かなくていいの。
何度も絶望して、それでも諦められなくて、心を凍らせるしかなかった過去の――私。
「あの子の『大丈夫』は本当に大丈夫だから」
いつも隣りで『大丈夫』と、くじけそうになる朔を励ましてくれた、今は遠い時空にいる対の神子。
望美のおかげで、私は今の幸せに辿り着いたから。
「黒龍。あなたの聞いた嘆きは過去の私。今の私ではないの」
「そうなのか? ……人間は難しいな」
「ふふ、そうね」
考え込む少年に微笑んで、空を仰ぐ。
この暗い闇夜にも、再び月は満ちると今は信じられる。
想いはまた積もる、と。