鬼にさらわれた娘

リズ望4

「これ……確か馬酔木の花だよね」

淡い桃色の花が鈴蘭のようにたわわになっている姿に、望美は傍に近寄り覗きこんだ。
そういえば朔の髪飾りがこの花だったと思い出し微笑むと、家の中へと戻っていく。
源平の戦の後、リズヴァーンと共に山の庵で住み始めてもうすぐ一年。
始めは何もわからず、リズヴァーンに教えてもらってばかりだったが、望美も少しずつ家事ができるようになっていた。

「先生、馬酔木の花が咲いてましたよ。寒さも前より和らいできたし、もうすぐ春がくるですね」

「神子、髪に雪がついている」

「あ、さっき木から落ちてきたのをかぶっちゃったんです」

望美が頭に手を伸ばすより前に、優しく雪を払う大きな掌に、ありがとうございますと微笑む。
羽織っていた皮衣を脱ぐと、丁寧に雪を払ってかける。
この皮衣は、寒がりな望美のためにリズヴァーンがこっそり作ってくれたものだった。

「洗濯物は私が畳むから、神子は火の傍へ行きなさい」

「皮衣着てたから大丈夫です。先生こそ火にあたっててください。朝からずっと水仕事してるんですから」

「私は大丈夫だ」

洗濯物も望美が洗うと言っても、冬は自分に任せるようにとさっさと洗ってしまい、料理も望美がするのは切るぐらいで、火起こしからほとんどをリズヴァーンがやっていた。

「……だったら一緒にやってお茶にしましょう。二人でやったらきっとあっという間ですよ」
「わかった」

望美の提案に微笑むリズヴァーン。
二人で暮らし始めてから、リズヴァーンはこうして望美に笑顔を見せてくれることが増えた。
それが師弟の関係からの変化に思えて、望美も嬉しく思っていた。
けれど本当はもう一つ、望んでいることがあった。

(先生は相変わらず『神子』って私を呼ぶけど、名前で呼ぶのは……無理なのかな)

役目を終えた望美は、もう神子ではなくなっていた。
それでもリズヴァーンは望美を『神子』と呼び続ける。

(私は先生じゃなく男の人として好きだけど、もしかして先生は違う?)

「どうした?」
「な、なんでもありません。あ、お茶のお代わり持ってきますね」
「神子、慌てると危ない……」
「きゃっ!」

注意も一呼吸遅く、急須に残っていたお湯を手にかけた望美に、リズヴァーンはその手をとると汲み置いている水をたらいに移してその中に手を差し入れた。

「待っていなさい」
「あ……」
踵を返し、家の外へと出ていくリズヴァーン。

(私、何やってるんだろう……。先生に迷惑かけてばかりで……こんな私がそばにいるのは、本当は迷惑なんじゃ……)

「神子。少し冷たいが我慢しなさい」
戻ってきたリズヴァーンは手に雪を持っていて、たらいに雪が入ると、ひやりと手がかじかんでいく。

「火傷は冷やすことが肝心……冷えるとは思うが我慢しなさい」
「はい。ありがとうございます」

皮衣を肩にかけてくれるリズヴァーンの優しさが切なくて、望美は唇を噛んで俯く。
そうして10分程の時が過ぎ、リズヴァーンはたらいに浸していた望美の手を持ち上げた。

「赤みはひいた。念のためにこれを塗っておく」
「それは?」
「大根の葉の汁だ。軽い火傷ならこれで直る」
「先生は本当に物知りですね。それにくらべて私は……」
「神子、顔をあげなさい」
俯いていた顔をあげると、そこには柔らかく微笑むリズヴァーン。

「神子が望むのならば、私が知っている知識を教えよう」

「先生……私が傍にいても困りませんか」

「なぜそのようなことを聞く?」

「……私、先生に迷惑かけてばかりで、全然役に立ちませんし……もう、神子でもないから」

「白龍の神子の任を解かれたとしても、神子が私の神子であることは変わりない」

「私は、神子じゃなくて春日望美として、先生の側にいます。だから……」

切なくて、今まで抱いていた想いが溢れ出て、リズヴァーンの胸にすがりつく。

「私は……先生が好きです。八葉だからでも、剣を教えてくれた先生だからでもなくて、先生が好きなんです」

「……お前がこの世界に留まる事を選んだ時、それを私もまた望んだ。この先も神子と共にあることを」

「先生は私が神子だから一緒にいてくれるんですか? 私が神子じゃなかったら……」

「落ち着きなさい、神子」

「神子って呼ばないで!」

望美の拒絶に、リズヴァーンが目を見開く。

「私は先生が好きだから……だからこの世界に、先生の傍にいることを望みました。最初は先生の傍にいられればそれだけでよかった」

リズヴァーンとひとつ屋根の下で寝食を共にする。
そんな生活が嬉しくて、けれども次第に抱いていった不安。

「先生がいつまでも神子と呼ぶのは、先生にとって私は神子でしかないから? 神子だから、八葉として傍にいてくれるんですか? だったら……!」
その先を、けれども口に出来なくて、涙が頬を伝っていく。

「私が神子と呼ぶことがお前を傷つけていたのか……」
「……私は……っ」
「―――望美」

しゃくりあげた瞬間、聞こえた名前。
顔をあげると、柔らかく抱きしめられる。

「お前こそが私の幸福だ。もはや、失うことも出来ない」

「先、生……」

「名前で呼ぶことをお前が望むのならば何度でも呼ぼう。望美」

「……先生……っ」

愛しげに紡がれる名前が、リズヴァーンが望美をどう想っているのかを伝えてくれて。
涙が溢れて止まらない。
泣き続ける望美を、リズヴァーンは何も言わず、泣きやむまでずっと抱きしめていた。

「先生、ごめんなさい。あと……ありがとうございます」
「お前が望むのならば」

優しく目元を拭う指に微笑むと、今まで見たことのない甘い笑みが向けられて。
どくんと、大きく鼓動が跳ね上がる。

「望美。私もお前に乞おう。師ではなく名を」
「名前……リズヴァーン?」

望美が彼の名前を口にした瞬間、この上もなく幸福そうに微笑んだリズヴァーンに、ぎゅっと抱きしめるともう一度彼の耳元で囁く。
望美にとって楽園そのものである彼の名を。
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