その心が再び恋を知るまでは-5-

冥かな3

ホワイトデーの後、しばらくかなでは冥加には会えずにいた。
彼自身は天音学園を卒業したが、元々学生でありながら理事長をこなしていたので、卒業後もその立場は変わらず、新学期の忙しさに追われているようだった。

かなではといえば、新部長となった響也の元で新たなオケ部のアンサンブルに励んでいた。
あれほど気まずかった響也とも、今はもう普通に話せるまでになり、響也の方も告白などなかったように今までと変わらずかなでに接してきた。
それは切なくもあったけど、もうあの時のような痛みは感じなかった。
時は優しくかなでを癒してくれていた。

そして、一時は乱れていた音は安定して、最近では色気を感じるようになったと、須永にからかわれた。
かなで自身は自分の音の変化はわからなかったが、みんなの反応を見ても変わったのは確かなようで、以前はサラッとしていると評された演奏も他の色を帯びるようになったらしい。
その変化が恋によって生まれたことを知っていたから、かなでは曲想を練る時は自身の心に向きあうようになった。

もちろん、すべてが恋につながるわけではない。
以前、冥加が教えてくれたように、当時の人たちの生活や、どんなものを美しいと感じていたのかを知ることも大事だと、積極的に美術館へ足を運ぶことも増えていた。
豊かな知識と豊かな感性が、音楽を深め彩っていく。そのことを改めて実感する。

そうしてヴァイオリンを奏でていると、不意に感情がわきあがる時があった。
それは時に切なく、時に甘く、かなでの心を震わせて伝える。
――冥加のことが好きだと。
その想いは胸にすとんと落ちて、かなではそれを大切に抱いた。
冥加を想う音はこんなにも輝いている。

けれどもこの想いを伝えるのは躊躇いがあった。
冥加はかなでが響也を好きだったことを知っている。
今、想いを伝えたらなんと思うだろう?
尻軽だと見限られるか、嫌悪されるか……そう考えると怖くてどうしても勇気が出ない。
それでも、このまま彼の優しさに甘え、すがっているのはあまりにずるかった。
その想いをないがしろにした行為でもある。

言葉で伝えられないのなら……下ろしていたヴァイオリンを再び構えると、奏でるのは『愛のあいさつ』。
星奏学院に伝わる伝説で、ヴァイオリンが恋を成就させてくれるというヴァイオリンロマンスの話を以前、ニアから聞いたことがあった。
そのロマンスを起こそうとは思わない。
ただ、自分の想いをヴァイオリンにのせて伝えたい。
そう思い、かなでは『愛のあいさつ』を奏で続けた。

* *

冥加から連絡があったのは6月後半。
冥加が出演するコンサートへの招待で、かなでは喜びそれを受けた。
いつかのように花を買い、彼の楽屋を訪れると、久しぶりに見るその姿に胸が高鳴る。

「今日はありがとうございます」

「花束など持って来なくとも構わなかったものを」

「だって、演奏を聞いたら絶対渡したくなります」

だったら最初から買ってくる方がいいだろうと伝えれば、涼やかな顔が笑みを乗せた。
そうして華々しく終えたコンサートの帰り、車で送るという誘いを断り、かなではあるお願いをした。
ヴァイオリンを一緒に奏でて欲しいと。

「コンサートの後で疲れているのにごめんなさい」

「貴様も気遣いという言葉は知っていたか。だが、いまさらだな」

「……ですよね。でも、どうしても冥加さんと一緒にヴァイオリンを弾きたかったんです」

週末合奏団の活動はジルベスタ―コンサートまでとしていたため、ひとまずその活動は止まっていた。
だから冥加と音を合わせる機会はなくなっていた。

「前にそんなことを言っていたな」
「覚えていてくれたんですね。ありがとうございます」

微笑みながらケースからヴァイオリンを取りだすと、互いに軽く調弦をしてから音を重ねる。
自分の音に重なる、もう1つの音。
ぞくりと背に電流が走るような感覚に、かなでは音を融け合わせていく。

2つの音がからまり、触れて融けていく。
互いをより高みへ誘い、共に手を伸ばし、天高く舞い上がる音。
それは以前にも感じた恍惚の瞬間で、かなでは互いの音が溶け合う心地よさに身を浸す。

音はすべてをさらけ出す。
隠したい想いも、伝えたい想いも。
かなでの抱く想いは冥加に伝わっているだろうか?
今、伝わる冥加の想いは、自分の都合の良い解釈ではないだろうか?

最後の瞬間まで弾き終えてヴァイオリンを下ろすと、同じく息を乱した冥加が食い入るようにかなでを見つめていた。

「好きです」

音にのせていた想いを言葉にすると、驚き見開かれた瞳。
信じられないというように瞠目する冥加に、かなでは今にも震えそうな唇を懸命に動かし、想いを伝える。

「冥加さんが好きです」

同じように響也に想いを伝えた。
そしてふられた。
その時の痛みを思い出してきゅっと目を瞑ると、大きな掌が背に伸び、抱き寄せられた。

「……本気なのか?」
問う声は、しかし疑うものでも嘲る響きもなく。
だから、かなでは素直に頷いた。

「尻軽だと思われても仕方ないと思ってます。冥加さんに愛想を尽かされても仕方ないことをしたし、言ってると思います。でも……」

この想いは本当なのだと、そう伝えようとして、抱き寄せる腕の強さにその先の言葉を封じられる。
流れる沈黙。
長かったのか短かったのか、判別できないほど緊張してかなでがその沈黙に耐え切れなくなった頃、低い声が頭上から答えた。

「愛している」

ジルベスタ―コンサートの夜に聞いた時と同じ愛の言葉は、あの時と同じ想いを宿していた。
自分を愛せなくともいい。
ただいつかかなでの心が動けばと祈ることだけ許してほしい――そう乞うように告げられた想い。
違うのは、実らなかった恋に涙していたかなでと、同じく実らぬ恋にそれでも添おうとしていたあの時の冥加の関係。

見限られても当然の振る舞いをしてきた。
彼を何度傷つけてしまっただろう。
それでも、冥加はかなでを受け入れてくれた。
愛していると、想いを返してくれた。
そのことが嬉しくて、涙が溢れて止まらなくなる。

「……泣くな。俺は慰めの言葉など持ち合わせていない」
「ごめ……なさ……」

それでも泣き続けるかなでを抱き寄せる腕はどこまでも優しくて、その胸にすがってしまう。
始めはわからず向けられる敵意が怖かった。
何気なく話しかけてもぴしゃりと拒絶され、どれだけ自分を嫌っているのか本人が言うようにその態度すべてでかなでを拒否していた。

それでも、かなでが奏でる音をずっと聴き続けてくれていた。
輝きを失っていた時も、再び輝きを取り戻そうと足掻いている時も、ずっと冥加は見守ってくれていた。
その優しさに触れ、知ってからは、冥加を怖がることはなくなっていた。
呆れたように冷たい眼差しで追い払われても、懲りずにかなでは冥加と接していた。

そして初めての恋に破れ、打ちひしがれていたかなでに冥加が手を差し伸べてくれたあの時から、新しい恋は始まっていた。
冥加の想いにすがるずるい恋。
無自覚にそれをしていた自分は本当に恥ずかしかったが、それでも芽生えた新たな想いをそのまま伝えずに秘めておくことは選ばなかった。
どれほど情けなくても、ずるくても、冥加が好いて良かったと誇れる人間でありたい。
誠実な想いに誠実に返したい、そう思ったから。

ひとしきり泣いて、ようやく涙が収まってきた頃身を起こすと、すっと差し出されたハンカチを受け取る。
冥加のぬくもりが残るそれは、あの夜と同じくあたたかく、かなでの心を包みこむ。

「あの……本当に冥加さん、私のこと好きですか?」

「貴様はいまさらそれを問うのか。フッ……目を合わせて伝えねば信じられないか」

「そ、そうじゃなくて、私、冥加さんに好かれるようなこと全然してないし、むしろ見限られても当然なことばっかりで…」

ワタワタと言い訳すれば、フッと甘い笑みが浮かんで。
その柔らかな表情に見惚れてしまう。

「俺はとうに囚われている。そのヴァイオリンの音色に……小日向かなでという女に」

ファムファタル。運命の女神。
憎しみに囚われているその間さえ、かなでの音は冥加の心をずっと支配していた。

「愛している。もう一度、俺に愛を誓ってくれ。その唇で」

自分に向くことはないと思っていたかなでの想いが向いている。
それは冥加にとっても信じがたいものだった。
自分を愛せなくともいい。そう思う気持ちは真実だったが、いつか心が自分に動いてくれたら……そう願わずにはいられなかった。
自分の全てはかなでという存在に侵されている。
彼女はもはや冥加にとってなくてはならないものなのだから。

「冥加さんが好きです」

乞うたとおりに、恥じらいながら愛の言葉を返してくれるかなでに想いが溢れて止まらない。
愛しい。ただひたすらに。
自分の顔が見せられぬほどに緩んでいることを自覚して、冥加はそれを隠すようにかなでを抱きしめる。
おずおずと背に回る腕に、今死んでもいいと思えるほど幸福なことをかなでは知らないだろう。
愛している。小日向かなでを。
その音を。そのすべてを。

高らかに鳴り響く愛の音を、ヴァイオリンはあたたかく祝福していた。
叶えられたヴァイオリンロマンスを二人は知らない。

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