その心が再び恋を知るまでは-4-

冥かな3

「そういえばこの前、小日向さんに会ったよ」
小日向、と天宮の口にした言葉に、冥加の眉がゆがむ。

「彼女、また音が変わってた。羨ましいよ」
「音が、変わった?」
「うん。恋を知った音」

天宮の言葉が心をえぐる。
音が変わった理由は、かなでの心を捕らえたあの男の存在。
そう思うと胸がつぶれるように苦しかった。

「ジルベスターの時も変化は感じたけど、今の方が人間らしいって言うのかな? 僕にはよくわからないけど、いいなと思うよ」

ジルベスターの時は響也を想っての華やいだもの。
その後と違うのは、その想いを失ったからだろう。
それを良いと頷けないのは、かなでの悲しみを知っているからだ。

「書類を置いたら出ていけ。貴様の戯言に付き合う時間はない」

「はいはい。あんまり眉間にしわを寄せると、小日向さんが新しいPC眼鏡を探してくるんじゃない?」

戯れに紡がれた言葉にさらに眉を歪めるのを気にせず出ていった天宮に、冥加はかけていたPC眼鏡を外すとそれを見る。
かなでが贈ってくれた物――それだけで、冥加にとっては手放せない物になってしまう。

バレンタインデーからかなでと連絡は取ってなく、彼女からも連絡はなかった。
ついに見限られたかと、口元から自嘲が漏れる。
それでもきっと、自分は彼女を追い続けるのだろう。
その想いが向くことはなくとも。
カレンダーに目をやると、冥加は時間を作れる日を換算して、再び仕事を再開した。

* *

3月14日。
バレンタインデーから一ヶ月が過ぎたこの日、冥加は彼女へ贈り物を届けた。
施しを受けたままにするつもりはなく、返礼は彼にとっては当然だったが、それでもこれほど緊張したのはかなでの控室にメッセージカードを贈った時以来だった。
しかしそんな冥加の思いとは裏腹に、着信を告げる携帯を手に取れば、そこに表示された名は小日向かなで。
無視することもできずに応答すると、やわらかな声が耳をくすぐる。

『贈り物ありがとうございました。あの、今時間ありますか? ちょっと渡したいものがあるんです。ないなら私がそっちに行きます。今、天音学園ですか?』

たたみかけるような問いに戸惑い時計を見る。
夜道を歩かせるには不安を感じる時間。
しかしここで断っても、彼女は絶対来るだろう――そう確信めいたものを抱き、冥加は迎えに行くと告げ、電話を切る。

こうして会うことはもうないだろう、そう思っていた。
それが覆されたことに浮かぶ喜びに眉がゆがむ。
彼女の一挙一動に喜び、揺れる己の心は何と容易いものなのだろう。
呆れさえ感じながらも、その誘いを断ることもできないのだ。

菩提樹寮に着くと、待っていたかなでを乗せて、先程まで思案していた行き先を運転手に告げようとして、かなでから香ばしい匂いがしていることに気がついた。

「何を持ってきた」
「冥加さん、夕飯はもう食べました? 前に何か作って持っていくと、約束しましたよね? まだでしたら、これをどうぞ」

差し出された袋には小分けされた弁当が入っており、箸も添えられていた。
レストランは却下だなと候補から外すと、次なる場所を思案する。
理事長室で弁当を広げようものなら、御影に何を言われるかわかったものではない。
かといって家に連れていけるわけもなく、結局以前夜中にコンビニで会った時のように、近くの公園を選んだ。

「ここで食べるんですか?」

「貴様を家に連れていっては、枝織が何を言いだすかわからんからな。長居するつもりもない。帰りたいのなら帰ればいい」

「私も一緒に食べていいんですか?」

「この量を一人で食べると思うのか? フッ……ずいぶんと大食漢に思われたものだ」

「冥加さんは体が大きいからいっぱい食べると思ったんです。それに家でなら枝織ちゃんにも食べてもらえばいいかなって」

「そのわりに水筒を手にしているようだが?」

「もしもすぐ食べてくれるなら、お茶もあった方がいいと思ったんです」

コポコポと湯気を立てるお茶をコップに注がれ受け取ると、春めいてきた日中と違い、夜の寒さにかじかんできていた手があたたまる。

「保温の袋に入れていたのでまだ温かいと思います。一応、冷めても美味しいようにはしたんですけど……はい、どうぞ」

皿に取り分けられた料理に箸を持つと口に運ぶ。

「…………」
「どうですか?」

以前もらったチョコを食べた時も感じた彼女の料理の腕は確かなものらしい。
自信があるというだけあって、舌の肥えた冥加も美味しいと素直に思うものだった。

「貴様は黙って食べられないのか。俺だけでこの量を処分するのは御免だと言ったはずだ」
「あ、はい」

冥加の返答に慌てて自分の分をよそうと、味を確認するように食む。

「美味しくできたと思うんですけど……冥加さんの好みじゃなかったですか?」

「……俺の好みをどこで知った?」

「枝織ちゃんに教えてもらったんです」

牛ヒレロッシーニ風は冥加の好物で、しかし弁当のおかずにと気軽に作れるものではない。
かなでの気遣いと労力に自然と眉間を寄せると、美味しくないと勘違いしたかなでがしゅんと肩を落とした。

「お口にあいませんか?」
「……よく弁当でこの味を出せるものだ。自信があるというのは嘘ではないようだな」

偽りで悲しませるのも気が引け、思ったままを告げればぱあっと明るく輝く表情に心が揺れる。
どうしてこんなにも愛しいのだろう。
取り分けられるままに箸を進めると、沢山詰められていた料理は綺麗に空になっていた。

「ありがとうございます!」
「なぜ貴様が礼を言う。礼を告げるのは俺の方だろう」
「全部食べてくれて嬉しかったので」

無理をしたわけでもなく、箸が止まらなかった――そう素直に告げられず、冥加は再び注がれたお茶を口にした。

「贈り物もありがとうございました」

「この間の施しへの礼だ。気に入らなければ捨てるといい」

「そんなことしません。冥加さんってセンスいいですよね。大切にしますね」

「この礼はまた改めて贈ろう」

「これはチョコの代わりですから、お礼はもういただきました」

「この間の菓子は俺が食べたのだから、今日の礼はまた別だ」

「え? チョコ食べてくれたんですか? 甘いもの苦手だったんですよね?」

「……食事を取りに外に行く時間が惜しかっただけだ」

「それでも嬉しいです。ありがとうございます」

嬉しそうに微笑むかなでに、冥加は立ち上がるとコップや箸を袋に戻し、手に取る。

「後日代わりのものを贈る。色の希望はあるか?」

「いいです。これ、汚れてませんし、私が片付けます」

「施しを受けてそのままなど礼に反する。返すつもりはない」

「えー?」

冥加の意固地なまでの態度は見慣れていて、かなでは眉を下げつつも諦めたように苦笑した。

「だったら、また今度食べてくれますか? そうしたら、冥加さんがくれた袋に入れて持っていきます」

「酔狂な女だ。他に喜ぶものなど周りにいくらでもいるだろう」

「私は冥加さんに食べて欲しいんです」

真意の見えないかなでに、ここで断っても彼女が素直に引かないのは経験済みで、冥加は内心で諦念のため息をつく。

「……好きにするといい」

「はい。あと、もし時間があれば今度、一緒にヴァイオリンを弾いてもらえませんか?」

「……気が向けばな」

「はい。それで構いません」

冷たくあしらってもニコニコと答えるかなでに、冥加は振り回されていることを自覚しながら、彼女を寮へと送り届けた。
かなでの心に小さく奏で始めた音楽に気づかずに。

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