その心が再び恋を知るまでは-3-

冥かな3

指先が熱い。
天音学園を出た後、かなでは近くの公園に立ち寄りベンチに駆け込んだ。
冥加の唇が触れた指先が熱くて、恥ずかしさにうぅ……と一人妙なうなり声を上げてしまう。
どうしてだろうとは、さすがのかなでも思わなかった。
わからないはずもなかった。
冥加の自分に向ける想いが。

「やっぱり夢じゃなかったんだ……」

響也にふられたあの夜はとにかくいっぱいいっぱいで、冥加の告白を半分も飲みこめていなかった。
ただ、頬に触れた手のぬくもりがあたたかくて、向けられる想いが優しくて、その存在に甘えてしまっていた。
ふられて二ヶ月もたたないうちに他の男にバレンタインのチョコを贈る女……どれだけ尻軽に映っただろうと思うと、今頃になって自分の浅はかさに穴を掘って入りたくなる。

「冥加さんが怒るのも当たり前だよね……」

かなで自身はちょうどいいぐらいに軽くお礼を兼ねて贈ったのだが、彼女に想いを告げている冥加にすれば悪女さながらの振る舞いだったのだろう。
はあ~と深いため息を漏らすも後悔は先に立たず、かなでは指先をキュッと握った。

指先が、熱い。
でもこのドキドキは嫌ではなくて、そんな気持ちに戸惑ってしまう。
あっちがダメならこっち――そんな尻軽な想いだったのだろうかと自己嫌悪に陥る。
そんなつもりはなかった。
それならどうしてこんなにも胸がドキドキしているのだろう。

「今度こそ見限られたかな……」

ひどい泣き顔に、それでも幻滅しない男は自分ぐらいだから妥協しろと告げた冥加。
その優しくも悲し気な微笑みを思い出して胸が痛む。
自分を愛さなくともいい。
ただいつかかなでの心が動けばと祈ることだけ許してほしい……そう冥加は言った。
あの時の表情も、重ねた音色も、すべてが自分に向けられた想い。
そっけない態度に隠されたかなでへの想いは愛に満ち溢れていた。
今頃気づいたなんてどれだけ失礼な女だろう。
見限られても当然だ。けれども。

「見限られたままは嫌だな……」

幼い頃に傷つけ、その傷によって輝きを失った音色で傷つけ、今度はその想いを踏みにじる。
三度にわたり彼を傷つけるのは嫌だと強く思う。
せめてこの女に惚れてよかったと、後悔されない自分でありたいと、傍らに置いていたヴァイオリンを手に取ると、ケースから取りだし音を紡ぐ。

響也への想い。
失った恋の嘆き。
新たな恋の戸惑い。
そんな想いを隠さず、すべてを音にのせて奏でる。
今この音が自分なのだとさらけ出すように。
無心に音を紡いでいると、パチパチと拍手が耳に届いた。振り返ると、そこには天宮がいた。

「君は恋を知っているんだね」
「天宮さん」
「羨ましいな。僕にはその音は奏でられないから」

人形のようだと評され、恋を知りたいとかなでに疑似恋愛を申し込んでいた天宮の言葉に、かなでは複雑な表情を浮かべた。

「私の音は……どうですか? 天宮さんが望むようなものですか?」

失恋の痛みや向けられた想いに戸惑う気持ち……そんな色々な想いの混じっていた今の演奏はどう映ったのだろうと問うと、天宮は一瞬考えるように目を伏せ微笑んだ。

「懐かしい土地の想い出を弾いてくれないかな。そうしたら今の君の質問に答えられると思うから」

チャイコフスキーの懐かしい土地の想い出は、天宮と初めて会った時に合わせた曲で、かなでは不思議に思いつつも頷き弦を構える。
今の想いをのせて奏でると、聞き終えた天宮は羨ましそうに微笑んだ。

「初めて君と出会った時、この曲はただ美しい風景が広がるだけだった。けれど今はそこに恋の響きを感じた。それは今の君の色なんじゃないかな」

「私の色……」

「僕の演奏は無色透明だと言われたことがあるんだ。だからこそ、恋を知り色が欲しいと思った。君の演奏には今、色がある。それは君が望んだものかは僕にはわからないけれど羨ましいよ」

恋は音楽を輝かせるものだけではない――そう思ったが違うのだと、すべての感性が音を彩り、紡ぐのだと改めて実感する。

「僕は今の君の音が好きだよ」
「ありがとうございます」

すとんと、胸に落ちてきて、天宮に微笑みと共に礼を返す。
ヴァイオリニストとして生きる覚悟はあるかと、以前冥加に問われ、あると答えたかなで。
今の音がその道へと繋がっていくのなら、すべてを音楽につなげ紡ぐのだろう。
恋の喜びも、悲しみも、戸惑いも、すべて。

「そろそろ帰った方がいいんじゃないかな。女の子が一人でいるには遅い時間だと思うよ」

「え? わっ、もうこんな時間! 引き留めてしまってすみませんでした」

「送っていこうか?」

「大丈夫です。天宮さんはこの近くでしたよね? 一人で帰れます」

「そう。じゃあ気をつけて」

「はい。おやすみなさい」

天宮に頭を下げると、ヴァイオリンをしまい、菩提樹寮へと駆けていく。

失恋に千々に乱れていた音は彩めき、戸惑いに揺れていた心は音楽を愛するかなでの道を指し示した。
冥加と向き合って恥ずかしくない自分でありたい。
その思いと同じぐらい、音楽を奏でる強い喜び。
それを思い出して、かなでの心は明るく輝いた。

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