勿忘草

央撫16

三冊目の日記を机に置くと、ベッドに潜り込んで灯りを消す。
今日一日の出来事を思い返して日記に記すのは、撫子が中学に入ってからずっと行っていることで、眠る前に欠かさず続けていた。

(中学になってから? ――違う。始めたのはもっと――)

浮かんだ否定の言葉は、けれどもすぐにそれを打ち消すようにノイズが入って、彼女の記憶に残らない。
何故と疑問を持つことも許されない。
それはあの大切な記憶が奪われていることに他ならないのに、それさえも今の撫子には分からなかった。

そう。撫子には失われた記憶があった。
それはあの壊れた世界の――大切な人の記憶。
忘れたくないと、そう願って書き始めた日記。
たとえ記憶が失われてもこの想いだけは忘れたくないと、そう願って書き留めていた想いも、けれども日がな一日と薄れていって、あの時願った想いさえ残すことは許されなかった。
書いていた言葉も次の日には違うと書き直したり、塗り潰したり。
それを何度と繰り返すうちに、何故消してしまうのか、消された文章があるのか、どうしてそんなことをしたのか――何もかも分からなくなってしまった。
だからいつしか塗り潰されて文字の判別も出来なくなった日記の成れの果てを捨ててしまった。
始めは捨ててもすぐに戻したり、また捨てたりを何度と繰り返していたが、そのうち本当に失くしてしまっていた。
今はもう思い出すことの出来ない記憶。
あれほど忘れたくないと願った彼との記憶は、こうして無情にも撫子の中から失われてしまった。
ポツン、と波紋が広がるように溢れた涙。

「え……? どうして……」

自らの瞳からこぼれ落ちた一滴が何を嘆いてのものかも分からず、けれども痛む胸は何かが失われたことを必死に彼女に伝える。
――忘れないで。
あの日の願いは叶わない。
こぼれ落ちていく記憶を留める術を彼女は持ってはいなかった。

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