勿忘草

央撫16


撫子から返信があったのは昼で、円の事前情報通り実習がないから早く帰れるとの言葉に、待ち合わせ場所と時間を決めて約束を取りつけた。
シャワーを浴びて支度が済むと、たまには街を出歩いてみようかと待ち合わせよりも早く家を出る。

「あ、ここ新店だよね」

何気なく歩いて見つけた洋菓子店に足を止めると、ショーウィンドウを眺めて、ふむと頷く。
繊細なデザインが見事で、いくつか見繕って撫子と食べようかと考えていると、先の通りの喧騒に気がついた。
視線を向けると、男の陰に見え隠れする姿に見覚えがあって、慌てて洋菓子店を離れると彼女の元へと駆けていく。
足音に気づいたのか、こちらを振り返った撫子は央を見ると、強張っていた表情から険が抜けてホッとしたのが見てとれて、さりげなく男との間に入って彼女を背に隠した。

「あ~ごめんね、お兄さん。彼女は僕と先約があるんで」
「……本当に待ち合わせてたのかよ」

央の登場に早々に諦めたようで、軽く舌打ち離れていった男に安堵すると、後ろの撫子を振り返った。

「ごめんなさい、待ち合わせているって言ってるのにしつこくて」
「僕こそ寄り道しないで早く待ってればよかったよね。ごめん」
「約束の時間より全然早いじゃない。私こそ早く終わったからって急いで来てしまったのが悪いのよ」
「うん、ありがとう。じゃあ、行こうか。向こうに新しい洋菓子店を見つけたんだ。ちょうどどれを買おうか悩んでいたとこだったんだ」
「え? 本当?」

キラリと目が輝くのはやはり女の子で、央は微笑むとその手を取って歩き出す。
先程の光景を記憶から消してしまおうと思うのに、どうしてか脳裏に焼きついてしまい、ずっと胸の奥に燻り続けた。


「美味しかったわね。それにとても綺麗で、食べるのがもったいなかったわ」
「うん。ここまで繊細なデザインってなかなかないし、味もいくつか組み合わせてうまくまとめられてて、やっぱり世の中にはまだまだ素晴らしいものが沢山あるよね」

店を出てケーキの感想を互いに言い合いながら歩いていると、央がとある店先の広告を目に留めた。

「そっか……来月はクリスマスだ」
「央?」

呟きに首を傾げると手を引かれて、きらびやかな店の中へと入っていく。
ネックレス、ピアス、ブレスレット……様々な装飾品が並ぶ中で、央が目指したのは指輪のショーケース。

「央?」
「普段使いするならあんまり華美じゃないほうがいいかな。撫子ちゃんはどういうのが好き?」
「どうして急に指輪なんて……」
「おまじない、かな。プロポーズはもう少し先になっちゃうから、それまで君を守ってくれるように……うーん、これとかどう?」

問いにショーケースを眺めたまま答える央に、撫子も戸惑いつつ指輪を見る。
ずっと身につけているのなら、石がないか埋め込まれたデザインがいいだろう。
あまり太いものよりは細身でシンプルな方が好みで視線を流していくと、一つの指輪を目に留める。
中央で蔦が絡まるように柔らかな曲線を描いた繊細なデザインで、控えめに埋め込まれたダイヤモンドがシンプル過ぎず程よく華やかさを演出していてつい見惚れていると、央がその指輪を指し示してショーケースから取り出してもらった。

「うん、似合ってる。サイズもちょうどじゃない?」
「え、ええ」

左手の薬指に通された指輪はあつらえたようにぴったりで、じゃあこれをお願いしますと話を進める央に、撫子が慌てて袖を引いた。

「央、こんな高いものをいきなり貰えないわ」
「いやいや、どうしても君に貰ってもらわないと」

意図がわからない撫子は突然の贈り物に戸惑っていて、さすがに言葉足らずだったかと包んでいる間に央が説明してくれる。

「おまじない……って言うより虫除けかな。撫子ちゃん、さっきみたいなこと今までも何度かあるんでしょ?」

中学に上がった頃から増え出した男子からの呼び出しに困らされたことも多く、けれども央と付き合うようになってからは毅然と断るようにしていた。

「でも、すべて断ってるわ」
「うん、そこは信用してます。だから、少しでも寄ってくる男を減らそうかなって」

指輪一つでどれほどの効果があるかわからないが、それでもわずかばかりでも効果があれば幸い、なんて言い訳で。

「……なーんて本当はただの独占欲。君の恋人は僕なんですって主張したかったんだよね」

側にいて毎日顔を合わすことも出来ず、弟や友人から恋人の近況を教えられる現状はひどくもどかしかったのだと、だからこれはただの我が儘なんだとバツが悪そうに告げる央にそんなことを思っていたのかと驚く。

「待ってて、なんて君を置いて海外へ行ってる僕にこんなこと言う資格はないのかもしれないけど。でも、どうしても夢も君も諦められないから」

だから待っていて欲しいと告げられて、ギュッと唇を結ぶ。
口を開こうとした瞬間に店員が紙袋を手渡して来たから、それを受け取ると英家に向かう。
自然と繋いでいた手を握ると足を止めて、撫子は央を見上げた。

「私は待ってるって、そう言ったわ。待ちたいの。どんなに会えなくても、寂しくても、それでもあなたを待ちたい」
「撫子ちゃん……」 「指輪もとても嬉しいわ。だから、そんな顔をしないで」

まっすぐに見つめて迷いなく告げるとぎゅっと抱き寄せられた。

「撫子ちゃんが大好きだよ。好き。あー本当に好き」
「央……その、私も好き、よ」
「うん、ありがとう」

微笑み、紙袋から箱を取り出すと、中に納められた指輪を左手の薬指に飾ってくれる。

「ちょっと早いけど約束。僕は絶対君をお嫁さんにもらいます。だから、約束」

そう言って差し出された小指に、鼓動が大きく跳び跳ねた。
記憶の琴線に触れる言葉。
約束――そう、私は約束した。
誰と?

(ーー彼と)

疑問に答えるように重なった声に、ふわりと風に揺れる白い花が眼前に広がった。
その景色が遠い記憶を甦らせて、あの日の約束が胸を締め付ける。

「撫子ちゃん?」
戸惑う声音に、けれども涙は頬を伝い落ちて。
大丈夫――そう微笑むことも出来ない。
止まることのない涙が、あの日の記憶を呼び起こす。
好きだった。央が……あの世界の彼を。
私の幸せを願ってこの世界へ返してくれた彼のただひとつの願いだった記憶も失くしていたことが苦しくて、悲しくて、泣き叫びたくなる。

(覚えていたい……あなたのことを。私が、初めて好きになったあなたを)

この世界に戻ってからずっと思っていた願いは、けれども叶えられることなく消えてしまっていた。

(ごめんなさい……ごめんなさいっ)

忘れたくないと、どれ程願っただろう。
日記に思い出を書き留めて、忘れないとそう思ったのに、こぼれ落ちていく記憶を留める術はなく、いつしか黒く塗りつぶされた日記もなくなり、忘れてしまっていた。
苦しくて悲しくて、そんな撫子を央が抱き寄せる。
伝わるぬくもりはあの人と同じで。

(本当に同じ?)

問いかける内なる声に、何と言葉を返せばいいかわからない。
【彼】も、彼も、英央。
けれども、同じ存在なんかじゃない。
あの世界で撫子がそうでなかったように。
突きつけられた現実に涙を堪えられなくて、撫子はしばらくそのまま泣き続けた。

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