勿忘草

央撫16


「はい。熱いから気をつけて」
「……ありがとう」

目の前に置かれたティーカップの立ち上る湯気を見つめながら、さざ波のように揺れる胸の内を鎮めていく。

「ごめんなさい、急に泣いたりして。……驚かせてしまったわよね」
「空港の時と同じこと、なんだよね?」
「……ええ」

撫子を追い詰めないように言葉を選ぶ央に頷くと、今にもこぼれ落ちそうな記憶を繋ぎ止めて説明する。

「……昔、とても好きだった人がいたの。でもずっとそのことを忘れてしまっていて……」
「……うん」
「今も、きっとすぐに忘れてしまうわ。あの世界の記憶は残せないから」

どういう理由でなのかはわからないが、撫子の記憶力の問題ではなく、何故か強制力をもって記憶は失われていった。

「あの世界?」
「近似値の未来……だったかしら。昔、私が学校で倒れていたことがあったでしょ?」

小学6年生の頃に一度、撫子は学校で倒れたことがあった。
詳細は覚えていないのだが、原因は朧気ながらもわかっていた。
近似値の未来――今でも難しい理屈はわからないが、精神だけを未来の撫子の身体に移し変える……そんな夢みたいな出来事を実際に撫子は体験した。
そこで出会った彼――英央。
課題を共に経験していない、今目の前にいる央とは異なる人生を歩んできた彼は、あの世界で唯一手をさしのべてくれた人だった。

「とても好きだったの。……それでも私はここに帰ることを選んだ」

心を決めた後も何度となくその決断を後悔した。
それでも覆せなかったのは、それが正しいのだと彼が言ったから。

「――君は戻ったことを後悔してる?」

問いかけに肩が震える。
それでも、ゆっくりと首を横に振った。
後悔しなかったわけではない。
【彼】のことが本当に好きだったから。
けれどもどうしても小学生の……こちらの世界の央のことを忘れられなかった。
あの世界の央を好きになりながらもその手を離したのは、この世界に戻ることを選んだのは撫子。
あまりにも傲慢で浅ましく、ぎゅっと腕を握りしめると、大きな手に覆われた。
昔はそれほど変わらなかったのに、いつしか男の人になった央。
そして今、彼はあの世界で出会った央と同じ歳になっていた。

「僕は君が好きだよ。だから君がこの世界に帰ることを選んでくれて本当に良かったし、こんなにも撫子ちゃんの心を奪ったその世界の僕には少し妬けるけど、でも絶対に君を譲ったりしない。――もっともっと好きになってもらって、この世界に戻ったことを後悔しないぐらい幸せにしてみせます」
「央……」
「だから僕に彼のことを重ねても平気だよ。それにもしまた君から記憶が失われても――彼の記憶は僕が共有する」

だから大丈夫だよと、額をつけてそう告げてくれる央の優しさに涙は止めどなく溢れ落ちる。
あの世界の央を想って泣く撫子を咎めることなく、その思いを包み込んで共に共有してくれる優しさに申し訳なく思い……それでも手放したくなくて繋いでいた手をぎゅっと握る。
あの日、離したくないと願った手は、帰ることを選んだ撫子が離してしまった。
――大好きだよ。 こぼれ落ちた記憶の中で、甘い痛みをもたらすその声。
元の世界に戻ればあの世界の記憶を忘れてしまうと、そうわかっていても忘れないでと願ったのは【彼】の本音だったから。

(ごめんなさい)

忘れないという約束を違えてしまったこと。
それがたとえ不可抗力だったとしても忘れたくなかった。――忘れたくなかった。

初めて異性を好きになったのは、あの世界の央だった。
でも愛したのは、この世界の央だった。
幼い頃から絆を結んで思いを積み重ねて、結婚したいと思ったのだから。
痛みは拭えない。哀しみも消えはしない。
それでも、央の手を離したくない。
彼を愛しているから。

「ーー撫子ちゃん?」

呼びかけに振り返ると、央の姿にもう一人の彼の姿が重なって。
見開いた瞳に、けれども記憶はサラリと風に溶けていく。
忘れたくない。
その願いは叶わないけれど、好きだった思いは消えてしまわない。そう信じたい。
眦の端に残った涙と共にこぼれ落ちた記憶に茫然と視線を虚空へ流していると、央がギュッと抱き寄せる。

「央?」
「……ごめん。君が消えてしまう気がして」
「え?」

央の言葉に瞳を瞬くと、緩まった腕の力に彼を見る。
迷い子のように揺れる瞳に諭すように頬に手を伸ばす。

「私は消えたりしないわ。央の側にいるでしょう?」
「――うん。ごめん、おかしなことを言って」
「ふふ、央も感傷的になることがあるのね」
「あのね……君は僕をなんだと思っているのかな」

唇を尖らせる彼に微笑むと、コツンと額を重ね合わせる。

「好きよ、央。ずっと一緒にいてね」
「もちろん。僕も君が好きだよ」

微笑む撫子にもう嘆きの色はない。
あの世界の記憶を再び失ったのだとわかった央は、その事に触れずに話を合わせる。
忘れたくないと、そう願っていた撫子。
忘れないでと願った【彼】。
叶わなかった願いは、けれども僕が覚えているよと心の奥で呟いて。
もう一度華奢な手に指を絡めた。

2020.03.15
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