勿忘草

央撫16


撫子とわかれ、自宅へ戻った央を出迎えてくれたのは円だった。
いるのなら一緒に迎えに来ればいいのにと思うのだが、そこは自分に気を遣ってくれたらしい。

「おかえりなさい、央。今回は長かったですね」
「ただいま~。うん、イベントと重なって抜けられなかったんだ」

留学中も時間を見つけては一時帰国していたが、今回は先の理由で半年以上戻れなかった。その間、電話やメールはしていてもやはり撫子に会いたくて、ずっともどかしい思いを抱いていた。
コーヒーでいいですか?と問う円に頷くと、豊かな薫りが鼻をくすぐる。

「食事はいいんですよね?」
「うん。機内で済ませたから大丈夫」

目の前に置かれたコーヒーカップに礼を述べると一口含んでほうっと息を吐く。
慣れ親しんだ味が帰宅していることを実感させて、改めて日本にいることに安堵した。
留学することに不満はなかったし、一流の料理人になるために色々な味を知りたいとそうすることを選んだのは央自身だったが、やはり日本とは景色はもちろん文化も何もかもが違うので、緊張は常に付きまとっていた。
だからこうして自宅に戻ると帰ってきたのだと安心することに気づいたのは、初めて一時帰国した時だった。

「ねえ、円。前に撫子ちゃんが泣いたこと覚えてる?」
「撫子さんがですか? 何ですか、藪から棒に。帰国早々に喧嘩でもしたんですか?」
「してないよ。ただちょっと思い出して」

撫子が泣いたのは9年前。
いつも気丈な彼女が大粒の涙をこぼして止めどなく泣いていたあの日のことは、今でも覚えていた。
お見舞いにと持っていったストロベリーマフィンを見た瞬間、こぼれ落ちた涙。
撫子は手があたたかいから涙が出たなんて言っていたけど意味がわからなくて、それでも握られた手が離れないでと訴えているのがわかって、その涙が止まるまでずっと握り続けていた。

「撫子さんが泣いたなんて覚えがありません」
「あ、そっか。円は下で皆といたから知らないんだった」
「撫子さんがどうかしたんですか?」
「うん……実は――」

空港での出来事を伝えると円は口元に手をやり思案する。

「……久しぶりに央に会えて感極まっただけじゃないですか?」
「うん……」

撫子も同じようなことを言ったが、あの日と同じで理由はわからないのに違うと、そう感じた。

「そんなに気になるのならデートの約束でも取り付けたらどうです? どうせ寝ぼけてそのままわかれたんでしょ?」
「うう……言い返せない」

寝起きがかなり悪いのは自覚しており、先程車で起こされた時も呆けてお礼を告げるのが精一杯だった。

「本人は気がついていないようですが、やはり群がる輩は複数いるようですよ」
「え? 何それ? 円、何を知ってるの?」

弟から投げられた衝撃的な事実に思わず立ち上がると、落ち着いてくださいと座り直されて、不在時の彼女の身辺の出来事を聞かされる。

「……やっぱり言い寄られてるんだ」
「まあ、キッパリ断ってるみたいですけどね」
「そんな話聞いてないんだけど?」
「僕だってたまたま遭遇して聞き出してわかったんです。相手にしてないんで言うまでもないと思ってるんじゃないですか?」
「うう……」

確かに撫子の心変わりは疑ったりしないが、それと恋人が言い寄られているのは別問題だった。

「バイトもしたいと言ってましたね」
「え? ほんと?」
「ええ。ただりったんさんや鷹斗さんに反対されて悩んでいるみたいですが」
「そうなんだ……」

この話も初耳だったことに地味にショックを受けているとため息が聞こえて、素っ気なく助け船が出される。

「今日は撫子さん、実習がないようなので夜にでも会ったらどうです?」
「……うん、そうだね」
「ああ、僕は仕事があるので今夜はアトリエの方に泊まりますからごゆっくりどうぞ」
「いや、実家でゆっくりもないよね?」
「ならどこかホテルでも取ったらどうですか」
「いやいや、それ撫子ちゃんのお父さんに殺されるパターンでしょ!?」
「だったらとっとと婚約したらいいんじゃないですか?」
「それは、僕が修行を終えてからだって言ったよね」

結婚をするなら彼女しかいないと、そう留学前から思っていたが、今の央では撫子の両親を納得させられる状態でないため、婚約は留学から戻ったらと考えていた。
それは撫子にも話していたし、彼女から了承も得ていた。

「そんなことを言っているとどこかからかっさらわれても知りませんよ」
「……今日の円、ちょっと意地が悪くない?」
「何言ってるんです。この上なく兄を思っての発言です」

キッパリ言い返す弟にため息をつくと、とりあえず今夜の約束は取りつけようとLINEを入れておく。そうしてしばらく円との会話を楽しみ、時間を過ごした。

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