大人こども

郁月3

「本当の恋は残酷だ。人の心に潜む影さえさらけ出してしまう」

初めて会った時、そう告げた郁の顔には拭えない悲しみが宿っていた。
それは郁のお姉さんの報われない恋によって刻まれた思い。
その後も大切なお姉さんを失った痛みを抉るような出来事が続いて……郁は心を閉ざした。

「人を引き寄せようとするくせに人を拒絶して……拒絶しながらも、また人を求める。でも、本当はただの子どもだ」
そう。子どものように純粋で……繊細な人。

「僕は誰も愛せないし、愛されたいとも思ってない」

人と自分の間に壁を作って、恋愛を否定して、それでも乗り越えて自分の元に来て欲しいとどこかで願ってる、寂しがりやなひと。
そんなひねくれもので寂しがりやで、誰よりも優しい郁を月子は好きになった。

だけど、郁を好きになって恋をして、初めて知った寂しさ。
郁は月子を好きだと言ってくれた。
けれども月子は今まで郁以外の男の人と付き合ったことがなくて、ふとした瞬間に感じる年の差に自分が子どもだということを思い知る。

郁のまわりには月子よりももっと大人で魅力的な女の人がいっぱいいる……そう考えると胸がきゅっと苦しくなる。
郁はゆっくり大人になればいいと、そう言ってくれたけど、郁につり合うひとになりたいと、そう願う気持ちは日に日に大きくなっていった。

「やっぱり似合わないよね……」

鏡に映し出された自分を見てこぼれたため息。
初めて買った口紅は、けれども自分にはまったく似合っていなくて、月子はきゅっと唇を噛んだ。
少しでも大人っぽくなれたら……そんな思いで買った口紅。
けれども無理に背伸びしているのを見透かすように、鏡に映った唇だけが違和感をかもしだしていた。

「……わっ! あ……携帯……っ? 郁からだ……」
鳴り響く着信音に慌てて携帯を手に取れば、そこに表示されていたのは大切な人の名前。

「は、はい!」

『おはよう。今ついたんだけど、まだバスの中?』

「おはよう。う、ううん。早く着いたのでちょっとだけ買い物をしてました。ごめんなさい、すぐ行きます」

『うん。待ってるよ』

耳をくすぐる甘い柔らかな声に頬を赤らめて、慌てて口元を拭うと口紅をバッグにしまう。
今日は久しぶりの郁とのデート。
いつでも星が見られる環境にある星月学園は少し街からは離れていて、高校生である月子が郁に会えるのは土日のみ。
それも郁の大学の予定と合わせると月に数回会えるかで、テストが続いていた今月は久しぶりのデートだった。

「……郁! ごめんなさい、遅くなって」

「待ち合わせ時間は過ぎてないよ。そんなに急いで来なくてもよかったのに」

「で、でも……郁を待たせたくなくて……」

「とりあえずカフェでお茶でもしようか。君、駆けてきたから息切れしてるよ」

微笑み手をとる郁に頬を赤らめて、優しい気遣いにカフェへと向かう。……と。

「……あれ?」
月子の顔をじっと見つめた郁の指先が唇に触れる。

「い、郁?」
「珍しいね。君が口紅をつけてるなんて」
「あ……」

拭ったつもりが慌てていたせいできちんと落ちていなかったらしい。郁の指摘に、月子はカッと顔を赤らめた。

「久しぶりのデートだから、おしゃれしてきてくれたの? でもこの色は君にはちょっと早いんじゃないかな」
「………っ」

言外にお子様だと、そう言われたような気がして月子の顔に傷ついた色が浮かぶ。

「月子?」
「……ごめんなさい! おとしてきます!」
「待って!」

慌ててさっきのトイレへ駆けだそうとした月子の腕を、郁がぱっと捕えた。

「……どうしてそんな顔をしてるの?」
「そんな顔って……?」
「泣きそうな顔。……もしかして僕が傷つけた?」
「………っ」

隠そうとしていたものを暴かれて、月子はきゅっと唇を噛んで俯いた。

「……ちょっとこっちに来て」
手を引かれ、駅前から傍らの公園に場所を移すと、郁は月子に向き直った。

「ねえ、君が何に傷ついたのか教えて」
「私は……」
「もしかして、僕が口紅を揶揄したから?」
「…………っ」

言いあてられ口をつぐむと、郁ははぁ……とため息をついた。

「……ごめん。傷つけるつもりじゃなかったんだ」
「い、いいんです。似合わないのは本当だから」

そう、郁が指摘するように口紅はまるで月子に似合っていなかった。
それでも、少しでも大人に……郁につり合う女性になりたいと、そう思って買った口紅だったから、少しだけショックを受けてしまったのだ。

「ねえ? どうして急に口紅をしようと思ったの?」
「……郁につり合う女性になりたいと思って」

月子の返事が予想外だったのか、目を丸くした郁が彼女を抱き寄せる。

「前に言ったよね? 僕はお子様の月子も好きだよ。だから急いで大人になろうとしなくたっていいんだ」

「……でも、郁と会えないと考えちゃうんです。私はお子様で、郁のまわりには綺麗な女の人がいっぱいいて……私じゃつり合いとれないな……って」

星月学園に郁を訪ねてきた大人っぽい女性。
他にも、郁の携帯に電話をかけてきた女の人達もきっと、月子よりずっと大人っぽくて魅力的な人達なのだろう。
そう思ったら不安で、少しでも早く大人になりたくて手にしたのが口紅だった。

「だったら、僕が大人にしてあげるよ」
「え……?」

聞き覚えのあるセリフ。
近寄る顔に以前の出来事を思い出し慌てて両手を伸ばして距離をとる月子に、郁はくすくすと微笑むとすっと手をとる。

「おいで」
「郁? どこに行くの?」
「お姫様はこの方法はお気に召さないみたいだから、別の方法を選ぼうかなって」

郁が言う別の方法がわからず、連れられるがままついていった先はコスメを取り扱う店。

「君なら……うん、この色がいいんじゃないかな」
いくつかの口紅を見比べて一つを手に取ると、月子の唇に柔らかく滑らせた。

「ほら」
促されて鏡を見ると、それは淡いピンク色で、月子が選んだ赤と比べて違和感なく唇を彩っていた。

「綺麗……」
「気に入ったみたいだね。じゃあ、これにしよう」
「え?」

満足げに頷くと、さっさとレジに向かう郁に慌ててつき従う。

「自分で買います」

「いいの。これは僕が君に贈りたいと思ったんだから」

「でも……」

「可愛い彼女を綺麗にしたいと思う男心だよ。素直に頷いてくれると嬉しいんだけど?」

そう言われたらそれ以上言えなくて、月子はありがとうと頬を染めて礼を述べる。
当初の目的通りカフェに行くと、テラス席を選んで向かい合う。

「郁、ありがとう」

「どういたしまして。ようやく君の笑顔が見れて、僕も嬉しいよ」

「……ごめんなさい」

「ねえ、月子。君は僕につり合うようになりたいって言うけど、君は今のままで十分魅力的なんだよ」

「そんなこと……」

「僕をこんなに夢中にさせてるのに、もっと君に夢中にさせたいの?」

郁の言葉にきょとんと目を瞬くと、苦笑が返されて。重ねた掌に力がこもる。

「君が大人になりたいのなら僕がそばで見ていてあげる。だから、一人でなろうとしなくていいんだよ」
「……うん」

郁につり合う女性になりたいと一生懸命背伸びして。
けれどそれは、もっと郁に好きになってもらいたいと、そう思う気持ち。
だから郁がそばで見守っていてくれるなら、急いで大人になろうとしなくてもいいのかもしれない、そう思えて月子の顔に笑みが戻る。

「君を大人にする方法は他にもあるし、君が望むならいつでも協力するよ?」
「それは……もうちょっと先がいいです……」
「はいはい。お姫様のお望みのままに」

茶化しておどける郁に顔を赤らめながら、とても大切に慈しんでくれる恋人に、月子は大好きと呟いた。

(君が思ってるほど僕は大人なんかじゃないんだけどね……)
傷つくことを恐れて、月子を傷つけ試して。それでも郁を選び、求めてくれた月子。

(君の方がよほど大人だよ。悔しいから口にはしないけどね)
Index Menu ←Back Next→