菩提樹

梓月14

「わぁ……!」
眼前に広がる景観に、月子が感嘆の声を上げる。
二人がいるのは、宮島に向かうフェリーの上。
結婚式とはずらして、別に日を改めた新婚旅行。その行き先を考えた時に、梓が提案したのが厳島神社だった。

「楽しいですか?」

「うん! 厳島神社って本当に海の中に建ってるんだね。写真では見たことがあったけど、実際に見るとやっぱり圧巻されちゃうね」

「そうですね。特殊な建築技法が使われているわけでもなく、1400年もこうして保たれているのはすごいと思います」

「でも、梓君が新婚旅行でここに行きたいって言った時はちょっと驚いたよ」

「そうですか?」

「うん。日本じゃなくて、海外を選ぶと思ったから」

「いくつか有名どころも考えてみたんですけど、オーロラだって宇宙から見えますからね。だったらいっそのこと、日本三景と謳われるところはどうかと思ったんです」

「そうだね。日本にも綺麗なところはいっぱいあるものね」

「それに、どうせなら宇宙から見るより、間近で見る方がいいものを見たいですよね」

天橋立や松島は、高い位置や少し離れたところの方がよりその景観を楽しめる、という理由からここ厳島神社を選んだ梓に、月子は共に見つめながら微笑んだ。

「ふふ、梓君らしい」

「あなたに喜んでもらえて、僕も嬉しいです。――あ、先輩」

「? ……!」

伸ばされた指先に、きょとんとその動きを見守っていた月子は、するりと髪を撫でられて、頬を薄紅に染めた。

「風で髪が乱れてます。……もしかして、期待させちゃいましたか?」

「そ、そんなことないよ」

「すいません。あなたが可愛くてつい余計なことを言っちゃいました」

「もう……梓君の意地悪」

頬を膨らませると、もう一度すいませんと謝られて。
その微笑みに、月子も笑顔に変えられる。
今回、二人はツアーではなく、個人での旅行を選んだ。
それは、梓が最年少宇宙飛行士ということで顔が知れてきたこともあったが、何より二人だけの時間を大切にしたかったからだった。

「よかった……」

「先輩?」

「空港では梓君に声をかける人もいたから、気兼ねなく過ごせてよかったなと思ったの」

「僕はアイドルじゃありませんからね。こんなところで写真を求められることはないですよ」

「テレビに取り上げられるだけでもすごいことだよ」

「最年少宇宙飛行士ってことで、一時的に騒がれてるだけです。すぐに静かになりますよ」

どこにいても、学生の頃と同じく梓は梓のまま。そのことが嬉しくて、月子は繋いだ指先を深く絡める。
ゆっくりと宮島観光を楽しんだ月子は、日が暮れる前にチェックインを済ませると、お茶を飲みながらほうっと息を吐いた。

「疲れましたか?」

「ううん。すごい楽しかったよ。梓君とこんなふうに一緒に出かけるのは久しぶりだったから」

「僕も楽しかったです。一日中先輩を独り占めできましたからね」

「そんなの、いつだって独り占めしてるでしょ?」

「そうですか? 僕はいつも先輩が不足してますけど」

「……私も梓君を独占できて嬉しい」

普段は家に月子を一人にしてしまうことが多く、宇宙に出る梓の身を心配して眠れない夜もあることを知っていた。
けれども、そんな彼女の不安を消すことはできなくて、その道を選んだのも自分で、だから梓は寂しいなんて口にはできなかった。

そんな梓を、月子はおかえりと笑顔で出迎えてくれる。
梓と一緒にいられることが嬉しいのだと、ほわりと本当に幸せそうに微笑む月子が愛おしくて、ああ、どれだけ自分は彼女に夢中になるんだろうと、自分の心の内を楽しく思う。

昔は1つのことに執着することが嫌いだった。
人でも、物でも、1つのことに縛られると他の可能性を潰してしまうような気がしたから。
そんな梓の目を覚ましたのが月子。

『執着は1つだけって誰が決めたの?』

それはまさに目から鱗が落ちた瞬間だった。
可能性を潰していたのは僕自身。
執着したもの全てを手に入れる努力をすればいい。
そのことに気づかせてくれたのが、一年先輩の月子だった。
それから、梓は月子の隣に並び立てるように努力した。
彼女が振り返るのではなく、前を向き歩き続ける彼女に追いつき、並び立つ。
それが梓が決めたことだった。

「まっすぐ前を向き続けるあなただから、僕はこんなにも惹かれるんです」

「前を向いてるのは梓君の方だよ。本当に宇宙飛行士になっちゃうんだもの」

「これで終わりにするつもりはありませんよ。まだまだ宇宙には僕の知らないことがたくさんありますからね」

「うん」

そうやって、笑顔で僕の背を押してくれるあなただから、好きにならずにはいられないのだ。

「ねえ、先輩? 新婚旅行のことを海外ではなんていうか、もちろん知ってますよね?」

「ハネムーン、だよね?」

「はい。では、ハネムーンの語源が蜂蜜酒からきていることは知ってますか?」

「蜂蜜酒?」

「古代ヨーロッパでは、蜜蜂の多産にあやかって花婿に蜂蜜酒をふるまったそうです。つまりは、子孫繁栄を促すものですね」

だから、と月子を抱き寄せると、慌てる彼女の耳元に囁く。

「だからこのハネムーン……蜜月は僕だけを見つめて、僕だけを感じてください。僕も、あなただけしか見ませんから」

「梓……くん……」

唇を重ねると、背に回された両手を了承の証に、梓はそっと月子を横たえる。
二人の蜜月は始まったばかりだった。
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