天秤

琥月7

『……がわからなくて錫也にみんなで教わったんです』
「そうか。東月も相変わらずだな」
『それで宮地君が……で、………』

月子の口から語られる大学での出来事。
それは遠くから聞こえているようで、星月はふっと上を仰いだ。
目に映るのは真っ白で無機質な理事長室の天井。

月子がこの星月学園から卒業して一年が過ぎた。在籍していた頃のように毎日顔を合わすことはもう叶わない。
だから会えない時間を埋めてくれるのは電話だけ。
けれど電話では彼女の体温は伝わらない。
星月の知らない出来事、目に出来ない彼女の様子がただ言葉の羅列になって伝わって、彼が抱くのは空虚と不安。

『――琥太郎さん?』
「どうした?」
『もしかして疲れてますか?』

電話越しの星月の反応の鈍さを感じ取ったのだろう、気遣う声に、吐きだしたくなるため息を堪えて笑う。

「……ここのところ仕事が立て込んでて、少し、な」
嘘ではない、いいわけ。
けれどもそれが全てではなかった。

年齢、立場、場所……二人を隔てるものは様々ある。
本当に彼女の傍にいるのは自分でいいのか?
その不安は絶えず星月の胸にあった。
自分よりもっとふさわしいやつがいるだろうと、何度と突き離そうとしたこともあった。
その度に月子は星月がいいのだと、時に泣きながら必死に彼の手をつかみ、放すなと訴えてきた。

「なあ……」
『会いたい』
「え?」

何度となく口にした『俺でいいのか?』の問いを遮るように重なった呟き。

『琥太郎さんに会いたい、です』
「月子……」

星月を気遣ってか、月子が我が儘を言うことはほとんどない。
そんな彼女の口にした欲求に、星月は椅子に深く座り直した。

「どうした? 何かあったのか?」

優しく問えば、会いたくなっただけです、と消え入りそうな返事。
月子の部活に星月の仕事と、互いの予定が重なり、気づけばもう一週間以上会っていなかった。

『……ごめんなさい! 我が儘でした』
すぐにさっきの言葉を否定して、大丈夫だと繰り返される声。

「本当に大丈夫なのか?」
『え?』
「俺に会えなくて大丈夫なのか?」

重ねて問えば、返る沈黙。
それが何より月子の本音だった。

「俺も会いたいよ」
『え?』
「会って、お前にキスしたい」

いつだって月子の傍にいたい。
彼女を見つめ、その声を、笑顔を、体温を感じていたい。
つい先ほどまではその手を放そうとしていたのに。

『私も……琥太郎さんに会いたいです。……大好きです』
「ああ。俺も……お前が好きだよ」
電話越しに震える吐息が愛しくて、今すぐ駆けつけて抱きしめたくなる。

「土曜日会えるか?」
『……はい!』
「会いに行く」

本当は今すぐ会いに行きたいが、目の前の仕事がそれを許してくれない。
それでも、会いたいと思う気持ちが次の約束を取り付ける。

本当に自分でいいのかと、迷う気持ちは絶えずある。
彼女を愛し、守り、幸せに出来る存在があることを星月は知っていた。
それでも……放したくない。
迷い、それでも彼女を抱き寄せて。
ずっと傍にと、そう願ってしまうから。

『放さないでください』
受話器から聞こえた声に目を見開いて、苦笑交じりに同意する。

「ああ」
彼女にこんなことを言わせるなんて甲斐性のない男だと、自身に呆れながら、それでも乞う言葉に幸せを感じる。

「会いに行くよ」
呟きにふわりと笑う気配を感じ、星月は微笑んだ。
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