「ふぅ……」
いつものように乱れた保健室の掃除をし終えた月子は、そっとカーテンの向こうを覗き込んだ。そこにはこの保健室の主である星月が、気持ちよさそうに眠っていた。
「先生ってよく寝てるよね」
以前ならば、またサボっていると呆れただろう。
けれど、星月が保健医と理事長の二足のわらじを履いていると知っている今、月子が抱くのはその身の心配。
「やっぱり忙しいんだよね……」
前理事長の琥春に代わり、その業務を肩代わりしていた頃も、星月は大変そうだったが、今かかっている負担はきっと月子が想像することもできないぐらいのものなのだろう。
少しでも手伝えたらいいのだが、学生である月子にそれは叶わない。だからせめてもと、保健室を整頓するぐらいしかできなかった。
静かにベッドに腰掛けると、起さないようにそっと星月の髪を撫でる。
以前、星月は水嶋の姉・有李に対しての罪の意識から、涙を流しながら眠ることが多かった。
けれど、水嶋から渡された有李の手紙で彼女の真意を知った星月はもう、涙を流すことはない。
星月自身が縛りつけた鎖は、有李の暖かな想いで解き放たれたから。
安らかな寝顔に安心して離れようとした月子は、しかし髪を撫でていた手を捕えられ、驚き星月を見た。
「先生! 起きてたんですか?」
「今、起きた……」
けだるげに前髪をかき分け目を開くも、まだまだその様子は眠そうで、月子は苦笑するとお茶を淹れますね、と立ち上がり給湯器の方へ向かおうとした――が。
「先生?」
「今はいいから、ここにいてくれ」
握られたままの手に、素直にその傍らに座り直した。
「……悲しい夢を見たんですか?」
「いや……ただ可愛い彼女にもう少し触れていたいだけだ」
「!!」
「今日はキスはしないのか?」
「………っ、意地悪言わないでください」
「寝てる時にするのが好きなのかと思ってな」
「そんなことな……っ」
星月の言葉を否定しようとして、引き寄せられ。唇に言葉を封じるぬくもり。
「……いきなりすぎです」
「いやか?」
「そんなわけ……ないじゃないですか」
頬を膨らませるも、嬉しくないわけはなく、月子は恥ずかしさを誤魔化すように視線を星月から逃がした。
「夜久はあったかいな」
「さっきまでずっと動いてたからじゃないですか?」
「また掃除してくれてたのか?」
「先生、散らかしすぎです。片付けたの、ついこの間ですよ」
「はは、悪い」
ちっとも反省しない声に、それでも許してしまうのは恋情故。
「今、何時だ?」
「えっと……5時半過ぎです」
「もうそんな時間か。悪いな、遅くまで」
「大丈夫です」
身体を拘束する腕の力が緩んだことに寂しさを感じながら、今度こそお茶を淹れに給湯器に向かう。
「ありがとうな」
月子が淹れるお茶は、決して美味しいとは言えないのだが、星月は気に入って飲んでくれる。
だから月子は、お茶を淹れるのが嫌いではなかった。
「もう帰っていいぞ。夕飯遅れると困るだろ?」
確かにもうすぐ夕食の時間で、寮住まいの月子がそれを逃すと自炊しか道がなく、料理が苦手な彼女にはイコール夕飯抜きになってしまうのだが、しかし星月の元を離れがたく、つい大丈夫ですとお茶を片付けるふりをして時間を引き延ばしてしまう。
月子が星月といられるのは、放課後のわずかな時間。
それも生徒会や部活があればかなわず、星月が不在の時だってある。
だからこうして一緒にいられる時間は、月子にとって貴重な星月とのひと時だった。
「夜久」
タイムリミットを告げる優しい声に泣きそうになる。
卒業まで二人の関係は秘密。
だから、わがままなんて言ってはいけない。
それは、星月と付き合うことになった時に決めたことだった。
それでも本当は、もっと一緒にいたい。
デートなんてできなくてもいい、ただ傍にいたいのだ。
あふれてくる想いを無理矢理抑え込んで湯呑を片付けると、わかりましたと頷き微笑む。
「また明日来ますね」
星月に仕事があれば守れない約束だけれど、それでも保健室に来る口実だけは残したくて、つい口にしてしまう。
わかっているから、だから否定だけはしないでほしい。
ずっと一緒にいたいなんて言わないから。
ただほんの少しの時間でもいい、逢って声を交わしたい。
そんな想いがこぼれ出してしまったのだろう、ああ、と優しく頷かれて撫でる大きな手のひら。
「楽しみにしてる」
たった一言で、さっきまでの寂しさが一瞬のうちに消えてしまった。
失礼しますと頭を下げて保健室を後にすると、振り返らずに歩いていく。
また明日会える……そのことを楽しみにして。