朝から大量の書簡と向き合っていた公瑾は、筆を置くと部屋を見渡し吐息を漏らした。
「……まだ戻っていないようですね」
公瑾が花に書簡を届けるように頼んだのは、午後の執務が始まってすぐ。
書簡を届け、帰ってくるには十分すぎる時間が過ぎていた。
生真面目な彼女が自分からさぼっているとは思えず、きっと大小姉妹辺りに掴まっているのだろうと結論づけると席を立った。
この世界に残った花は、玄徳の元へは帰らずに公瑾の手伝いをするようになっていた。
けれども仕事が忙しく、同じ部屋にいるというのに用事を言づける程度にしか接せられないことに、ひそかに公瑾は苛立っていた。
部屋を出て程なく、探し人は廊下で見つかった。
だがそこには花以外に城の警備を担う兵士が共におり、なおかつ花の髪に触れているその姿にどろりと嫉妬がわきあがった。
「――あ、公瑾さん!」
気配を感じたのか、振り返った花が公瑾の姿を認めた途端浮かべた笑み。
黙ったままの公瑾に気づいていないと思ったのか、「公瑾さーん」とぶんぶん手を振る姿が愛らしく、だがその傍らの存在が苛ただしく、止まっていた歩みを進めると、花に近寄り彼女と傍らの兵士を見下ろした。
「このようなところで何をしているのですか?」
「髪飾りが絡んで落ちそうになっていたのを、この兵士さんが教えてくれたんです」
「不躾な真似を致し、申し訳ありませんでした! 失礼します!」
公瑾の眼差しの強さに怖じ気ずき、兵士は逃げるようにその場を去っていった。
「書簡は届け終えたのですか」
「あ、はい。子敬さんからお菓子を頂いたので、もしよければお茶にしませんか?」
「……そうですね。では、私の部屋に参りましょう」
「え? 執務室じゃなく、ですか?」
「ええ。あなたが書簡を届けている間に、他の処理は終わりましたので」
「……すみません」
「謝る必要はありませんよ。あなたはちゃんと子敬殿のところに書簡を届けていたのでしょう? まあ、その途中雑談に勤しんでいたというのであれば問題ですが……」
先程の兵士とのやり取りを思い出しちくりと嫌味を混ぜると、しゅんと花が肩を落とす。
「さあ、行きましょう」
背を押すように促すと、気まずそうに従う花に心の中でため息をついて、公瑾は苛立ちを消化するように努めた。
「お邪魔します」
「どうぞ、椅子に座っていてください。今、お茶を淹れます」
「あ、私がやります」
「ここは私の部屋ですから、そのようなお気遣いは無用です」
立ち上がろうとする花を制して茶器を用意すると、花は落ち着かなさそうに部屋を見渡した。
以前、花がこの部屋を訪れたのは公瑾の看病の時。
それ以降、この部屋に立ち入るのは今日が初めてだった。
「どうかしましたか?」
「い、いえ、なんでもないです」
慌てて俯く花を訝しげに見ながら茶器を並べると、向かいに腰かけどうぞと促した。
「それで、子敬殿から何を頂いたのですか?」
「あ、これです」
花が取りだしたのは、花を象った菓子。
確かに女性が好みそうな可愛らしい形で、子敬が届けものに来た花に褒美としてこれを譲ったのも頷けた。
「可愛らしい菓子ですね」
「はい! 市井でも人気があるそうで以前、大喬さんと小喬さんが今度買いに行こうと誘って下さってたんです」
「……そうですか」
なかなか市井に降りる時間が作れず、結果花は大喬小喬姉妹や尚香と出かけることが多く、そのこともわずかばかりの不満だった公瑾はついそっけない返事を返すと、その変化に気がついた花がじっと彼を見つめてきた。
「公瑾さん、やっぱり怒ってますか?」
「何をですか?」
「書簡を届けてすぐに戻らなかったことです」
「そのことでしたら先程申しあげたでしょう。気になさるのはあなたに後ろ暗いことがあるからではありませんか」
「…………っ」
内心の苛立ちのままについ冷たく返してしまうと、再び花の顔が曇り、公瑾はそんな己の狭量さに苛立った。
「……言い過ぎました。あなたが率先して勤めを疎かにしたとは思っていませんよ」
「……………」
「お茶が冷めてしまいます。頂きましょう」
「……はい」
お茶を促すとおずおずと手を伸ばすも、やはりその顔は曇ったまま。
「美味しくありませんか?」
「そんなことありません」
「ですが、あなたの表情はそう申していません」
「そんなこと、ないです」
「そうですか」
単なる嫉妬です、と口に出すことは矜持が許さない。
それがひどくもどかしく、せっかくの二人きりの時間がきまずく過ぎてゆくことに公瑾はどうしようもなく苛立っていた。
「お茶、御馳走様でした。部屋に戻りますね」
「――花っ」
「はい? まだお仕事が残ってますか?」
「……っ、え、ええ。やり残していたのを思い出しました。手伝って頂けますか?」
「はい」
つい引き留めてしまった公瑾は無理矢理話をこじつけると、それに気づかず頷く花。
先程の失態を取り戻そうと思ったのか、張り切っているらしい姿に、ほっと胸を撫で下ろす。
「では行きましょう」
「はい」
さりげなく肩を抱くと、ほんのりと色づく頬。
「ああ、そういえば髪がくずれてしまったのでしたね」
先程の兵士とのやり取りを思い出し花の髪に触れると、はいと髪飾りを手にする花。
「後で直します」
「貸してください。私がやりましょう」
「え? 公瑾さんが?」
「はい。問題がありますか?」
「それはないですけど……その……」
「問題ないのであれば構いませんね。では失礼します」
香油をつけない花の髪はさらりと柔らかく、手櫛で整えると横の髪を後方に寄せて髪飾りを留めた。
「ありがとう、ございます」
髪の合間から覗く真っ赤に染まった耳が愛らしく、口を寄せてそっと囁く。
「今度、市井におりましょう……二人で」
「! はい!」
公瑾の申し出に嬉しそうに微笑む花に口元を緩めると、執務室まで並んで歩いて行った。