空を見上げながら一つ溜息をつく。
仲謀の母に会い、自分なりの答えを導き出してからとんとん拍子に進み始めた婚儀の準備。
どれがいいんだと、仲謀に詰め寄られながら花嫁衣装を選んで、儀式の所作を教えられと忙しない毎日が続いていた。
しかし婚儀当日が近づいてくると、とたんに不安になってきた。
それは仲謀がよく口にしている『婚儀までの我慢』。
始めは仲謀が何を我慢しているのかわからなかった。
けれど花とて17歳。
何度かキスを交わしているうちに、我慢が何なのかわかってしまった。
「うう、どうしよう……」
花は今まで異性と付き合ったことがない。
それ以前に、恋をしたことがなかった。
人を好きになるという気持ちを初めて知ったのが仲謀だった。
キスも初めてなら、当然その先など未知の領域。
本などで多少の知識はあるものの、知識と体験は全く違うものだから、花は大いに戸惑う。
仲謀の事は好きだ。
この世界に残ることを選んだほど、彼のことが好きだ。
けれども恋人を通り越していきなり結婚という状況にも戸惑ったのに初夜ともなれば、初心な少女が戸惑うのは当然だった。
「花さん、どうかしたんですか?」
「仲謀にいじめられたの?」
「仲謀横暴ー!」
「ち、違うんです、大喬さん、小喬さん」
「何かお困りのことがあるなら私たちに話してください」
心底心配してくれている尚香の優しい声に、けれどもさすがに初夜のことに戸惑っていますとは言えず。
大丈夫、何でもないのと笑ってごまかす花の後ろで、大喬小喬はにやりと顔を見合わせた。
* *
「子敬、婚儀の準備はどうなってる?」
「問題なく進んでおります。ふぉっふぉっふぉっ」
「そうか」
母への面通しを終え、各方面への伝達も成され。
どこか呑気な花を急かすように衣装も選ばせ、婚儀に適した吉日も決まった。
後は、婚儀の日を待つのみ。
「ところで仲謀様、例の手配はどういたしましょうか」
「あ、ああ」
子敬の言葉に顔が強張る。
婚儀を迎える前に済ませておきたい、あること。
兄のように適度に知り得ておけばよかったが、若くして孫家当主を引き継いだ仲謀は正直それどころではなかった。
しかし、婚儀の夜に恥をかくのはやはり避けたい。
「そうだな……仕事が一段落しそうな明後日でいいか?」
「畏まりました」
ふぉっふぉっと独特な笑い方をする子敬に、仲謀はふと浮かんだ花の顔に罪悪感を抱いた。
(あいつが知ってるとは思えない……っつーか、知ってるなんて考えたくもないが一応年上だしな)
年下だと思っていた花が実は一つ上だったと知った時はとにかく驚いた。
(これで笑われでもしたら絶対立ち直れねえ……)
花に経験があるとは到底思えないが、やはりこういうことは男がリードするものだろう。
だが如何せん、仲謀にはその手の経験が全くない。
しかしそこは当主一族、昔から奥手な者のためにそうした手順もしかと用意されていた。
(花以外と……ってのは気がのらねえが……仕方ないよな)
仲謀とて花だけ知れればそれで良い、が彼にも男としてのプライドがある。
(別に浮気ってわけでもないしな……)
これはあくまで勉強の一つ。
男として知識を得るために必要なこと。
そう自身に言い聞かせていると、ドタドタと賑やかな足音が近づいてきた。
「あの足音は……」
嫌な予感に顔を歪めると、バタンとノックもなしにドアを開け放ったのは予想通り大喬小喬姉妹。
「大小! ここはてめえらの遊び場じゃねえんだぞ!」
「仲謀大変だよ! 花ちゃんが……!」
「……っ花がどうした!?」
姉妹の口から飛び出した名に顔色を変えると、大喬は慌てたように仲謀を急かす。
「花ちゃんが部屋で泣いてるの」
「仲謀、行ってあげて!」
「花が泣いてる? なんだよ、それ」
どうしてそんな事態になっているのかがわからず混乱する仲謀を、姉妹は早く早くと急かし執務室を追いだした。
「ふぉっふぉっふぉっ。大喬殿、小喬殿、今日はどのようなことを思いつかれたのですかな?」
「内緒だよ。ねー」
「ねー」
「ふぉっふぉっふぉっ」
先程までの必死な形相は嘘のように消え、笑い合う姉妹に子敬は楽しげに微笑んだ。
* *
「…………花っ!」
「え? 仲謀??」
突然開け放たれたドアに驚き振り返ると、駆けこんできた仲謀は茫然と花を見つめた。
「お前……泣いてたんじゃないのかよ」
「泣いてる? え? そんなことないけど……」
「………っあいつら~~~~!!!」
いつもながらだまされたことに気づき怒る仲謀に、花はわけがわからず小首を傾げた。
「何かあったの?」
「何でもねえよ!」
「……仲謀不機嫌だし」
「不機嫌じゃねえ!」
どう見ても不機嫌だが、それ以上突っ込んだところでイライラが増すだけなのは知っているから、花は茶の準備に立ち上がった。
「お茶淹れるね」
「………ああ」
ぶすりと椅子に座った仲謀を横目で見ながら茶器の用意をする。
(さっきあんなこと考えてたから、何か目を合わせずらいな……)
ふとよぎった初夜に、かちゃりと茶器が音をたてた。
「………アツッ!」
「花? ……! 火傷したのか!?」
「だ、大丈夫だよ。少しお湯がかかっただけだから」
「大丈夫じゃねえ!行くぞ!」
「え? 仲謀?」
引きずられ連れてこられたのは井戸で、仲謀に握られたままくみ上げた水に火傷をした手をつけた。
「……赤みは引いたみたいだな」
「うん。ごめんね、驚かせて」
「お前がそそっかしいのには慣れてるからな」
「ううう……」
悔しいが反論することも出来ず俯いた。
と、目に入ってきたのは繋がれた手。
(わっ……!)
慌てて引くと、仲謀が驚き見つめた。
「なんだよ」
「べ、別に……」
「何にもないわけないだろ」
不機嫌そうな仲謀に抱き寄せられ、花は顔を赤らめた。
「だ、だめ!!」
「な……っ! さっきから何なんだよ!」
「ち、仲謀が急に抱き寄せるから」
「婚約者を抱き寄せて何が悪いんだよ」
むすっと眉を歪める仲謀に、初夜のことが頭をよぎる。
「だめなものはだめなの!」
「……そうかよ。わかった。お前は俺に触れられるのが嫌なんだな」
「ちが……っ! そうじゃなくて……っ」
「だったらなんでそんなに嫌がるんだよ!」
「仲謀の……ばか……っ!」
「ば……っあああああ~もういい! 勝手にしろっ!」
苛ただしげに立ち去っていく仲謀を、花は止めることも出来ず俯いた。
* *
「花ちゃん、仲謀と何かあった?」
「え?」
仲謀と喧嘩別れをして二日、どこか沈んだ様子の花に大喬が尋ねた。
「わかった! 仲謀が花ちゃんをいじめたんだ!」
「ち、違うんです。私が勝手に仲謀を避けて、それで怒って…」
「どうして仲謀を避けるの?」
「そ、それは……」
まさか来たる初夜に不安でとも言えず、花は困ったように眉を下げた。
「ねえ、花ちゃん。花ちゃんは仲謀のこと、好き?」
「……はい」
仲謀の事は好きだ。
けれども今まで恋をしたことのない花にとってはキスでさえドキドキと胸が張り裂けそうになるもので、その先など未知の領域だった。
「仲謀は花ちゃんのことが大好きだよ」
「……わかってます」
「花ちゃんは仲謀が他の女の人に触れてもいいの?」
「―――え?」
大喬の言葉に顔をあげると、その瞳にはいつにない真剣な光が宿っていた。
「婚儀の前に当主一族はあることをするんだよ」
「あること?」
「伯符みたいに遊んでない子がすることなの」
「??」
謎かけのような言葉に首を傾げると、小喬が助けるように言葉を継いだ。
「花ちゃんは仲謀の初めての女の子じゃなくていいの?」
「!!」
「仲謀はカッコつけたがりだから、たぶん花ちゃんのために選ぶよ」
「仲謀が……」
姉妹が微妙に濁す言葉。
けれども花はその意味がわかった。
立ち上がると、私仲謀のところに行ってきますと花が駆けていく。
「幸せなのが一番だよねー」
「そうだよねー」
その姿を見送った姉妹は、嬉しそうに顔を見合わせ微笑んだ。
* *
執務室の前にたどりついた花は、しかし中に入れず立ち尽くしていた。
(つい来ちゃったけど今、仕事中だよね……)
仕事の邪魔をしてまで他の女を抱くなと伝えるのはさすがに憚られて、花は引き返すべきかと逡巡する。
「おや? 花殿どうされましたか?」
「子敬さん」
ふぉっふぉっ、といつものように独特な笑いで現れた子敬は花を執務室の中へと促した。
「仲謀様なら中におられますぞ。ささ、どうぞ」
「い、いえ、仕事中ですし、また出直します」
「――今日は花殿の元に参られませんがよろしいのですかな」
「え?」
意味深な言葉に振り返ると、子敬は読めない表情で花を見つめた。
「今夜は特別な用がおありですので」
「特別な用ってなんですか?」
「それは花殿には申し上げにくいことですな」
「!!」
さっと顔色の変った花に、子敬はドアを開けて中へ促した。
「子敬戻ったか。……花? どうしてお前がここに……」
「仲謀……」
驚き見つめる仲謀に、花はなんて切り出していいかわからず俯いた。
「どうした? 何か用か?」
「う、うん」
「そうか。ちょっと待ってろ」
手にしていた書簡を置くと、仲謀は立ちあがって茶器の用意を始めた。
「あ、私がやるよっ」
「いいって。また火傷されても困るしな」
「…………」
二日前のことを出されてはごり押しできず、花は仕方なく傍の椅子に腰かけた。
「……この前は悪かったな」
「え?」
「その……怒鳴って出ていって」
「あ……ううん。私も悪かったし……」
一人恥ずかしがって避けて、わけがわからず仲謀が怒るのは当然だった。
「と、ところで今日はどうした? 何か用があるんだろ?」
「あ……」
切り出されて、花はここに来た目的を思い出す。
「お前がここに来るなんてそうそうないからな。何か大事なことなんだろ?」
優しく問われ、瞳に涙が溢れた。
「お、おい……っ」
「……やだ……よ」
「あ?」
「仲謀が……他の女の子を抱くなんて嫌だよ……っ」
「! お前、なんでそのことを……っ」
「やっぱり、そうだったんだ……」
驚く仲謀に大喬の話が真実だったことを知って、花はぽろぽろと涙をこぼす。
『花ちゃんは仲謀の初めての女の子じゃなくていいの?』
脳裏によみがえる大喬の言葉。
「仲謀の初めては……私じゃなきゃいやだよ……っ」
「…………っ」
「確かに何にもわからないけど……でも……私は……っ」
「………もういいっ!」
ぐいっと腕を引かれ、気づくと仲謀に抱きしめられていた。
「お前は……何てこと言うんだよっ」
「だ……だって……」
「くそ、人がどんな思いで……あ~!」
苛ただしげに俯くと、頤を持ち上げ花の唇を奪う。
「俺だってお前だけで十分なんだよ! ……けどその、俺がわからないと……困るだろ!」
「そんなのいい。わからなくてもいい。仲謀が他の女の子を抱くなんて、そっちの方が嫌だよ……っ」
泣きじゃくる花の唇を食んで、何度も何度も吸い、その意識が悲しみを塗り替えるまで仲謀は吸い続けた。
「そんな可愛いこと言うんじゃねえよ。我慢できなくなるだろ」
「だって……」
「お前が嫌だっていうならしねえ。そのかわり……その、へ、下手とか言うなよっ!」
「そんなこと言わないよ。私だって初めてだし……」
「そうなのか?」
「そうだよ!」
問われ答えてから急に恥ずかしくなり俯いた花に、仲謀ははぁ~っと息を吐き出す。
「そっか…」
「仲謀?」
「いや、なんでもねえ」
花が未経験だと知って安心したなどと言えるはずもなく、仲謀は言葉を濁すともう一度花に口づけた。
「ん……っ」
「…………っ!」
こぼれた小さな声に、どくんと熱くなる身体。
こみあげてくる衝動に煽られるまま貪りたい衝動をなんとか堪え、仲謀は花の身を離した。
触れたい。
けれども触れれば、もっと奥まで触れたくなる。
湧きあがる情欲を必死に理性でねじ込むと、仲謀は大事なことを思い出した。
「……子敬!」
「なんですかな」
呼ぶやすぐにやってきた参謀に、仲謀は慌てて今夜の伽の件を口にする。
「例のだが悪いがなしだ」
「ふぉっふぉっふぉっ。わかりました。しかしよろしいのですかな?」
「ああ」
躊躇うことなく頷く仲謀に微笑むと、子敬は恭しく頭を下げて出ていった。
「仲謀……ごめん」
「謝るな。ってか、謝る必要なんかないだろ」
「でも……」
「なんだよ。俺が他の女を…」
「いやだよ」
仲謀の言葉を遮る花のいつにない強い瞳に微笑むと、その身を抱き寄せそっと囁く。
「我慢するのは婚儀までだからな。婚儀が終わったら……覚悟しろよ」
「………うん」
「……! い、今、頷いたよな? 取り消しはきかないからな?」
「わかってるよ」
「絶対だぞ!」
「何度も言わないでよ」
照れくさそうに顔をそらす花に、仲謀は今まで以上に婚儀を待ち遠しく思った。