「暑い……」
先程から背中どころか、額からも汗が流れ落ちてきて、花はぐったりと椅子にもたれる。
孫家に連なるものの証として渡されたもふもふの衣も、今の花には暑さを増長させるもので、受け取った時の嬉しさはどこへやら、意を決すると裾に手をかけた――瞬間。
「花、いるか?」
ガチャリと、前触れなく開けられた扉に、衣を捲し上げながら反射的に振り向いた花。
その彼女の姿を見るや、固まった仲謀。
一瞬凍った時を動かしたのは、花の悲鳴だった。
「きゃああああ! ノックぐらいしてよ! 仲謀のバカ!!」
「な……っ、お前が不用心なだけだろう! ってか、何やってんだよ!?」
「あんまり暑いから、着替えようと思ったの!」
大慌てで後ろを向いた仲謀に、花は衣を直すと、再び襲ってきた暑さにはあ~と気だるげに息を吐いた。
「着替えって……夏用の衣を新調してやっただろ?」
「生地がそうでも首のところは変わらないんだもの」
孫家のトレードマークらしいもふもふは、夏の衣にももちろん健在で、夏といえば半袖に短パンやスカートだった花にとっては、露出が少ないこちらの衣は暑くて仕方がなかった。
「そんなの、心持ちだろ。暑いと思うから暑いんだ」
「暑いものは暑いよ……」
心頭滅却すれば火もまた涼し、という言葉は知っているが、そんな境地に辿りつける気がしない。
何と言っても、この世界に来るまでは扇風機やエアコンと言った現代利器に頼り切っていたのだ。
「ねえ、夏の間だけ制服に着替えてもいい?」
「ダメだ。お前は俺様の妻なんだからな」
にべもない拒否に膨れる頬。
仲謀の言い分はわかるが、暑いものは暑い。
普段と変わらない仲謀を(というよりは、彼のもふもふを)見ていると無性にイライラしてしまい、花はふいっと顔をそらした。
「……仲謀は本当に俺様だよね」
「は? 俺様は俺様だろうが。何が悪いんだよ」
「着替えるから出てって」
「だから、あの服はダメだって言ったろ」
「どうしてダメなの? 孫家当主の奥方にふさわしくないって言うなら、部屋だけにするよ。それなら構わないでしょ?」
「ダメだ」
暑さで普段よりも沸点が低い花は、聞く耳を持たない仲謀に苛立ち、それなら勝手にすると衣に再び手をかけた。
「おま……っ、こんな明るいうちから何やってんだよっ!」
「着替えるんだよ。仲謀が出ていかないのが悪いんじゃない」
「だからダメだって言っただろうが! それより俺の目の前で着替えるって、お前には羞恥心がないのかよっ」
「羞恥心より涼しい方が大事なんだよ!」
叫んだ瞬間、くらりと景色が揺らいで。
崩れ落ちかけた花の身体を、仲謀がとっさに受け止める。
「お、おい!」
「……………」
「花? くそ……っ、誰かいないか!」
仲謀の呼びかけに慌ててかけてくる女中に、あれよあれよという間に花は布団に寝かせられた。
* *
「暑気あたりですな」
年老いた医者の言葉に、仲謀ははぁと深く息を吐く。
先程の花の振る舞いを思い出し、頬を赤らめると、苛ただし気に髪を掻きあげた。
「で、どうすればいい?」
「なるべく涼しいところで、水分を多くとらせてあげることですな」
「涼しいところか……」
上気した顔で眠る花に、仲謀は考えを巡らせると、医者に花を任せて部屋を出る。
「子敬!」
「ふぉふぉ、どうされましたかな?」
「確か、水辺に兄上が所持されていた邸があったな」
「はい。今でも手入れはしておりますので、いつでもお使いいただけるかと」
先程の騒動を知っているのだろう、子敬の言葉に仲謀は仕事の算段をつけると、急ぎのものから取りかかった。
数日後、花と仲謀が水辺の邸で過ごす姿が見られた。
「仲謀、ありがとう」
「お前、ああいう姿は絶対他の奴にさらすんじゃねえぞ」
「するわけないよ。っていうか、仲謀が着替えるって言っても出ていかなかったんじゃない」
(……それでも強硬しようとしてたやつが何言ってるんだよ)
思い出された花のあられもない姿に、仲謀は必死に気を鎮めた。