君がいるこの時代

春芽8

「ああ、君はなんて美しいんだ!」

いつものように写生をしようと屋敷を出たところで見かけた猫。五月とは思えない強い日差しと暑さから逃れるように、洗濯物の陰で昼寝をしている姿が目に留まるや否や、彼の中の画家モードが発動され、たちまちその姿に夢中になってしまった。
その猫は何度と見かけている美猫で、彼のこうした振る舞いにもすっかりなれてしまったようで、軽く目を明けその姿を確認すると再び眠り続けたから、春草は思うままその姿を描き続けることができた。
時間も忘れて描き続けて、猫が伸びをして動き始めた頃には十分過ぎる枚数を描けて画家モードから通常に戻った春草は、ふと差した影に上を見上げた。

「芽衣?」
「もう描き終わりましたか? 今日は暑いのにずっと外にいたんですね。顔が真っ赤ですよ?」

日傘を差し出しているのは彼の恋人の芽衣で、その心配そうに下げられた眉にようやく体内にこもった熱に気がついた。

「……ありがとう。屋敷に入ろう」
「はい」

彼女から日傘を受け取ると差し掛けながら屋内に入り、麦茶を淹れてきますねと台所へ向かった芽衣に、サンルームの定位置に座る。
彼女と共に明治からこの平成の世に来て、春草は変わらずこの鴎外の屋敷に住んでいた。だが当然ながら鴎外もフミも居らず、年季を感じさせる家具などに、自分は本当にタイムスリップしたのだと認めざる得なかった。
見慣れたはずの屋敷が一夜にして古びた様にはさすがの春草も驚きを隠せなかったが、後悔はなかった。まだまだ志を同じくした友や師と描き続けたかったと思わなくはないが、それでも何より失いたくないと強く願った存在が傍にあることが、他全てを失っても得られたことに納得していたからだ。

「お待たせしました。はい、どうぞ」

冷えた麦茶を礼を述べて受け取ると、一気にコップの中身を煽る。喉を通る冷えた感覚に、自身が思っていた以上に喉が渇いていたことを実感して、空になったコップをテーブルに置いた。
口端から僅かにこぼれた麦茶を手の甲で拭うと、ふと感じた視線を目で追う。そこには顔を真っ赤に染めて自分を見つめる芽衣がいて、その変化にどうしたのかと目を見張った。

「君、どうしたの? まさか君も熱中症になりそうなんじゃ……」
「違います、大丈夫です!」
「じゃあなんでそんなに顔が赤いの」

こちらの世界に来て覚えた「熱中症」という言葉を口にして気遣えば、ブンブンと勢いよく頭が振られ、気まずそうに目を泳がせた芽衣が小さく呟く。

「春草さん、色気がすごすぎます……」
「…………は?」

言われた意味が理解できなくて間の抜けた声を出すと、芽衣が自身の真っ赤な頬を包み込んで「お茶を飲むだけでなんでそんなに色気駄々漏れなんですか!」とさらに続けられた言葉に呆気にとられた。
よく彼女は俺のことを色気があるというけれど、それは男に使う言葉なのだろうかと正直不満だった。だから彼女の手を取り、指先を絡めながら覗きこむと、笑みを浮かべて耳元で囁く。

「……それって君が俺に欲情したってこと?」
「よく……!?」
「そういうことだろ? だったら……」

息を吹き込むように囁けば、ふるりと肩を震わせ見上げた芽衣の瞳に宿る情欲の色を確めて、淡く色づいた果実を味わうようにその唇をゆるりと食んだ。

20190526
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