離れないで

春芽4

「あれ?」

学校から帰ってきた春草は、明かりの消えた家に顔を強張らせる。芽衣を連れて鴎外の屋敷からこの新居に移り住んで一月弱。不馴れで家事に四苦八苦する芽衣との暮らしは賑やかで、学校が終わるとすぐに家に足が向く春草に学友たちはひやかすが、それさえも幸せだと、喜びを感じていた。
急ぎ鍵を開けて家の中に入ると芽衣の姿を探す。普段なら春草が帰るのに合わせてご飯支度を始めており、米の炊けるほのかな香りが家の中に漂っているのにそれもなく、静まり返った我が家にスッと血の気が引いていく。
――今日は満月だった?
まさかと、込み上げてくる不安に抗うように家の中を渡り歩いて、とある部屋の襖を開けた所でぴたりと足を止める。かすかな寝息と、暗がりに浮かぶシルエットは間違いなく。

「芽衣?」

そっと近寄ると緩やかに上下していた肩が震えて、眠そうな声と共に瞼が開く。

「ん……あれ? 春草さん? どうしてこんなに…………あ!」

寝ぼけていた頭はようやく現状を把握したらしく、慌てて立ち上がるとあたふたと灯りを探し始めた。その手を取ると、動きを止めた芽衣が不思議そうに見上げてくる。

「春草さん?」
「そんなに慌てて動くと転ぶよ。君はただでさえ何もないところで転ぶようなおっちょこちょいなんだから」
「う……っ。気をつけます」
「うん」

気遣う振りをして抱き寄せるとその温もりに安堵して、強張っていた身体からようやく力が抜けていく。
今日が満月だと気づいた瞬間、胸によぎったのは芽衣がいなくなってしまったのではないかという焦燥。満月の日に出会った彼女は、気づくといつも空を、月を見上げていた。
その姿に、いつか彼女は目の前からいなくなってしまうのではないか……そんな焦燥にかられるようになったのはいつからだろう。触れていないと消えてしまいそうで、朧にしか物を映さなくなってきた目に余計に不安で、強引に口づけて、彼女を自分に縛りつけた。
満月が過ぎてからは毎日月を見上げることもなくなって安心していた。捕まえたと、そう思っていた。
それでもこうして何かの折に触れて満月の夜に心乱されてしまうのは、きっと本当には手に入れたと安堵できていないからなのだろう。心に巣食う不安はこんなにも簡単に表面に出てきてしまうのだから。

「春草さん? あの、そろそろ放してもらえませんか?」
「なに? 俺に抱き寄せられてるのは嫌なの?」
「ち、ちがいます! そうじゃなくて家の中が暗いし、ご飯も作らないと……」
「いいよ。今日は外で食べよう」
「え! でも、渡米も控えてますし、節約した方が……」
「君、俺がそんなに甲斐性ないと思ってるの? まあ、毎日はさすがに無理だけど、別にいろはだって構わないよ」

いろはという芽衣にとっては何よりも大切な店名に大きく反応する様に笑うとその手を取る。

「まあ、君が今日は蕎麦の気分だって言うならそれでも俺は構わないけど?」
「いつでも牛肉はウェルカムです!」

からかえば案の定、食いつく芽衣に呆れたように微笑んで、ほらと手を引く。伝わる確かな温もりに安堵して、そんな心の揺れを隠そうと肩を寄せる。
君は俺の隣にいるのだと、確信したくて取った行動は、けれども存外鈍い芽衣が気づくことはない。

(君は気づかなくていい。ただ側にいてくれればそれでいいんだ)

胸の内の呟きは自分の中だけに留めて、確かな感触を繋ぎ止めて。どうか俺の側から離れないでと願った。

20190425
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