おあずけ

春芽3

夕餉の片付けも終わった芽衣は、寝室に向かう廊下を何度も往復していた。寝室には当然春草がいるだろう。それを思うとどうしても足を向けられないでいた。
春草と喧嘩をしたわけではない。嫌いになったわけでもない。ならば何を躊躇うのかと言うと――。

「芽衣、まだ終わらないの?」
「! い、いえ、今終わりました」
「そう。なら寝よう」

寝室から待ちかねた春草が顔を見せたのに芽衣は肩を跳ねさせると、ぎぎぎ……と音がしそうなほどぎこちなく歩き出す。

「なに、どうしたの? 変な歩き方して」
「そ、そうですか?」

訝しげに眉を潜める春草に、けれども芽衣の歩みは遅く、焦れた彼が立ち上がってその腕を引く。

「いつも通り沢山食べてたと思うけど、もしかして具合でも悪いの?」
「い、いえ、元気です」
「だったら俺を見なよ」
「!!」

一段低くなった声に、けれども動けずにいると顎に手を添えられ、ぐいっと視線を合わせられる。春草の綺麗な顔を目の前にすると鼓動が跳ね上がって動揺せずにはいられないのに、顔をそらすことは許してもらえなくて、うるさいぐらいに胸が高鳴る。

「どうしてそらそうとするの?」
「…………っ」
「俺のこと、嫌いになった?」
「! そんなことあるわけないじゃないですか!」
「だったら、どうして逃げるの」

躊躇いを見抜いて苛立つ春草に、芽衣はぐるぐる巡っていた胸の内を仕方なしに打ち明けた。

「だって春草さん、そのまま寝てくれないじゃないですか……」
「? それって君を毎晩抱いてること?」
「っ、そうです」
「加減はしてるはずだけど、そんなにつらい?」
「そうじゃなくて! もう少しでアメリカに岡倉先生方と行くんですよね?」
「うん」

それがどうしたと、まるで理解していない春草に、芽衣はああああと心の内で呻くと、要点を叫ぶ。

「こんなに毎日していたら、赤ちゃんが出来ちゃったらどうするんですか? 私もって言ったのは春草さんじゃないですか!」

この明治の世にも避妊具はあるのだが、眉唾物でどちらかと言えば大人のおもちゃ的な意味合いが強く、平成の世のようにかなりの確率で避妊をすることなど不可能だった。つまりは、回数を重ねればそれだけ妊娠する可能性が高くなる。妊娠すれば長期の船旅など無理だろう。そう思い至ってから、芽衣は何とか夜の回数を減らそう、出来ればなくそうと試みていた。
けれども、寝室に入るやすぐに押し倒されること数回、布団に横になった途端襲われること数回。他にもあれやこれやと決して大人しく寝てくれない春草に、芽衣は危機感を募らせていた。

「……そうだね。ごめん」

芽衣の言い分が間違っていないことを認めて謝罪すると、春草がはぁとため息をつく。

「こんなことなら鴎外さんの屋敷に居候したままの方が良かったかな……」
「二人で暮らしたいって言ったのは春草さんじゃないですか」
「うん。でも、毎晩君が横で眠っていて手を出さない自信がなくて」
「…………っ」

飄々と言う春草に顔を赤らめると俯き、だったらとある提案をする。

「だったら、別々の部屋で寝ませんか? 部屋も余っていますし、布団も二つありますし」
「…………」
「春草さん?」

芽衣の提案に渋い顔で黙りこんだ春草を見上げると、目が合って。え、と思う間もなく唇が塞がれる。

「……んっ、や……しゅ、…………んっ」

ダメだと胸を押したいのに、壁に縫い止められるように両手共に押さえつけられ、身長差から覆い被られる体勢では顔をそらすことも出来ず、深い口づけを受け続ける。
これはまずい。何がまずいって、この流れはいつもの夜コースだからだ。何とか両手の戒めを解いて胸を押すと不満そうな表情に、負けじとキッと視線を返す。

「……ぷは! ダ、ダメだって言ってるじゃないですか!」
「分かってるよ」
「全然分かってないです!」

唇を尖らせる春草に言い返すと抱き寄せられて、だからと暴れようとすると頭の上から呟きが降る。

「分かってるよ。だから口づけだけで我慢しようとしてるんだ」

はぁ、と切なげな吐息にほだされかけるが、春草と一緒にいたいのは芽衣だって同じだ。だから必死に気持ちを抑えて大人しく聞く。

「確かに子どもが出来たら渡米なんて無理だ。君にもしものことがあったら俺は耐えられない」

ぎゅっと抱き寄せる腕に力が入って、春草がどれだけ大切に思ってくれているかが分かってその背に腕を絡める。

「春草さんがアメリカで頑張る姿を私、見ていたいです。だから、帰国まではお互い我慢しましょう?」
「……そうだね」

何とか春草の了承を得られてホッとするも、抱き寄せる腕が緩んだと思ったら頤を持ち上げられ。

「んっ」

ちゅ、と再度重ねられた唇に軽くでなく貪られて、はぁはぁと呼吸を乱す。

「しゅん、そう、さん……っ、」
「ねえ、『お互い』ってことは君も俺に触れられたいと思ってるってことだよね?」
「…………!」

覗きこんだ若草色の瞳は意地悪い光を宿していて、己の失言に青ざめる。

「ようは最後までしなければいいんだろ? だったら、俺が君に触れても構わないよね」
「し、春草さん?」
「一緒に気持ちよくなれなくても、君の気持ちよさそうな顔を見るのは好きだしね。沢山触れてあげるよ」

いや、結構です!と、拒否する前に再び口を塞がれて、衿の合わせから入り込んできた手に「んーんー」とせめてもの抵抗をしてみるが、あっという間に甘い混沌に飲み込まれていくのだった。

* *

「……結構これ、キツいな」

はぁ、とため息をつくと、寝落ちた芽衣の隣から立ち上がり向かったのは厠。芽衣のよがる顔を見るのは好きだが、自身を解放できないのは思ったよりもキツく、しばらくは厠通いになりそうだとため息つきつつ扉を開いた。

20190410
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