心得指南

春芽22

読んでいた本を傍らに置くと、へなりと力なく突っ伏す。
彼女が読んでいたのは、鴎外の屋敷で世話になったフミから譲り受けたもの。
アメリカからの帰国の報告に森邸を訪れた折りに、春草と籍をいれたのだからとニコニコ笑顔で手渡されたのは女性の心構えが載っているという本で。
ただでさえこちらの常識に疎い芽衣は、素直に感謝を述べて受け取ったのだが、早速家事の合間に読んでみるとそれは予想もしなかった内容で。

「本当にこれを皆してるの……?」

現代女子高生として全く知識がなかったわけではないがそうした経験は(たぶん)なく、なので本の生々しい記述にただ恥ずかしさを感じてしまう。
本に載っていたのは、『閨』での女性の心構えで、夫をいかに喜ばせ繋ぎ止めるかが書かれているのだが、その記述はあまりにも刺激が強かった。
意を決して閉じた本のページをめくると続きを読む。
初項でめげた閨の一般的な心得の次は新婚の心得とあり、その内容を読み進めていくうちに次第に顔が青ざめていく。
というのも昔は婚礼の夜に備えてあらかじめ母親若しくは仲人より懇切丁寧にその方法を説明されるものらしく、結婚初夜の振る舞いは永く夫の心に残り、この後の家庭が平穏無事になるか否かはこの一夜に係わるとあったのだ。
芽衣はこの世界に親兄妹はおろか親戚さえおらず、故に当然そのようなことを教えてくれる者はなく、されるがままを受け入れていた。
だがそれでは夫は満足せず、その後の夫婦関係を揺るがすとあっては青ざめるのも当然。
しかもすでに初夜は済ませており、今更やり直すことも不可能なのだ。
その時のことを思い返すととても本の通りとは言えなく、芽衣はただただ狼狽えた。

「もしかして初めがよくなかったから春草さんは私に手を出さないの……?」

この家で初めて結ばれた時は渡米前で、現代のように避妊手段もないとあればその後のことを考えるとそうした行為を続けるわけにもいかず、初めに数度身体を合わせた後はすっかり途絶えていた。
けれども日本に戻った今では何も問題はないというのに、春草が芽衣を求めることはなかったのである。
帰国直後は時差や長旅の疲れもあり、また春草も学生から教員となって働き始めたために、すぐに床につく日が続いていた。
しかしその忙しなさも近頃は落ち着き、こうして家事の合間に本を読む暇も見つけられるようになっていた。
もしも春草が求めてこないのは自分に飽きたからだとすれば、他の女を求めてしまうのかもしれない。
その想像はあまりにも恐ろしく、きゅっと目を閉じて耐えると、そろそろと本に手を伸ばした。
芽衣がこの世界に残ったのは、春草を愛したから。
その彼に不要とされたらいる意味がなくなってしまうのだ。
これは恥ずかしがっている場合ではないと、意を決して本の続きに目を通すと、新婚の心得の次はいよいよ閨の具体的な内容となり、頭から湯気が出る。
手を添えて自分から導くだの、両足を立てて自分から受け入れるだの、とにかく女性が積極的に求める様が綴られており、いつもされるがまま受け入れていた芽衣には目から鱗どころの話ではなかった。

(動きに合わせて腰を動かして、相手の様子を見てって……うう、そんなの……)

とてもそんな余裕などないし、そも恥ずかしくて顔なんて見れないのにと、泣きたい心地でページをめくると、さらなる表記に目眩を覚える。
そこに書かれているのはところいわく性技と呼ばれるもので、それも女性視点での指南なためにとにかく細かかった。
正常位1つとっても一般的なものからそのアレンジバージョンと様々で、これを閨で使いこなすなど到底無理だと項垂れる――と。

「ねえ、なんか焦げ臭いけど大丈夫なの?」
「ふひゃあ! え? あっ!!」

突然の声かけに比喩でなく飛び上がると、指摘に慌てて台所へ走る。
本に夢中になりすぎてご飯の仕上がりが近かったことを忘れていたのだ。
急ぎ火からおろすと中を見る。
本当は蒸らすのに開けてはいけないのだが、ダメになってしまったか確認しないわけにはいかず、サッと見て胸を撫で下ろす。
匂いから底は焦げている部分もありそうだが、上までは及んでいなかったので炊き直しは免れた。

「春草さん、ご飯大丈夫でした! 少しお焦げもあると思いますけ……ど……」

お釜の様子を伝えに戻ると、彼があの本を手にしていることに動揺する。

「しゅ、春草さん、それ……!」
「これ、どうしたの? 貸本屋?」
「違います! それはフミさんに結婚したからってこの前渡されて……っ」
「ふうん。そう」

短い返事に、けれども当然落ち着けるはずもない。春草がどういう本なのか知っているかは関係なく、あれを読んでいたという事実を知られたことがひどく恥ずかしくてどうしていいかわからなかった。

「ご飯出来たんだろ?」
「は、はい」
「じゃあ冷めないうちに食べよう」

何事もなかったかのように本を傍らに置く春草に、芽衣は台所へ引き返すと作ってあったおかずとご飯をお盆にのせてテーブルへと運ぶ。

「これ」
「ひゃい!?」
「……なに、それ。里芋の煮付上手くなったよねって言おうとしたんだけど」
「あ、ありがとうございます。ご飯は大丈夫ですか?」
「うん。少し焦げ臭いけど、昔の君のご飯を思えば全然食べれるし」

まだ鴎外の家にいた頃、何度かご飯を炊くのに失敗したことがあり、そのことを指摘されて顔を赤らめる。
現代のようにスイッチひとつで簡単にご飯が炊けることのないこの世界では、火おこしからまずしなければならずとても苦労したのだ。
フミが丁寧に教えてくれなければこうして二人で暮らすなど不可能だったと、心の中で感謝を述べつつ春草を見る。

(春草さん、どうして何も言わないんだろ……)

以前ならば間違いなく冷たい目で見られただろうし、何かしらのアクションがあってもよいものなのにまるで触れてこないことが不思議だった。
もしかしてこうしたことに淡白なのだろうかと考えるも、渡米前を考えるとそうではないとわかるから。

(もしかしてやっぱり私に飽きたから?)

浮かんだ考えは鉛のように重くのしかかり、その日初めて芽衣はご飯を残してしまった。

* *

風呂から出ると、重い足取りで寝室へ向かう。
先に入った春草は居間には居なかったのできっと寝室なのだろう。
今日も布団に入ってすぐに寝てしまうのかと思うと悲しくて、襖を開けられずに目の前で止まってしまった。

(いつもと同じ。昨日と変わらないのに……)

気づいてしまえば苦しくて仕方ない。
じわりと眦に涙が浮かびかけると襖が開いて、怪訝そうに春草が見る。

「どうしたの? 入りなよ」
「…………」

言葉が出なくて俯くと手を引かれて、バランスを崩して彼に倒れかかるとグッと顎を持ち上げられて唇が塞がった。

「……っ? 春、草さ……んっ」

何が起きているのかわからず問おうとするも、口を開けた瞬間舌が入り込んできて絡め取られてしまう。
無意識に逃げようとするも背に回された腕は強く引き寄せて離れることを許してはくれないから、芽衣は急速に与えられる刺激に翻弄されるしかなく、腰から力が抜け崩れ落ちていくとそのまま床に押し倒された。
見下ろす春草の眦も朱を帯びていて、久しく見てなかった獣の瞳にドクンと鼓動が跳ね上がる。
すぐにまた唇が重ねられて、感じる荒い呼吸は彼も同じで、着物の合わせを探る手の荒々しさに記憶が遡って。
全身で芽衣が欲しいと、そう伝えている姿に知らず涙を溢れさせるとピタリとその動きが止まって、春草が戸惑い見つめてきた。

「ごめん、急で驚かせた。……怖かった?」
「ちが……嬉しく、て……」

返答に目を瞬かせた春草を見上げると、顔を覆って不安を吐露した。

「帰国してから春草さんがこうして求めてくれたことがなかったから……だから私に飽きちゃったのかなって……不安で……」
「は? ……はぁ」

予想もしていなかった言葉だったのか、心底驚いたように目を丸くすると、深くため息を吐き出して。指先でそっと涙を拭ってくれる。

「そんなこと考えてるなんて思いもしなかったよ。俺はただ帰ったばかりで疲れてるみたいだし、久しぶりだからまた前みたいに君を抱き潰したくなかったから、落ち着こうとしていたんだ。なのに君があんな本を読んでるから」
「あ、れはフミさんが……」
「うん。鴎外さんのあの日の笑みの理由がわかったよ」
「へ?」
「それより続き」

ちゅっと軽く唇を触れ合わせると覗きこまれて。

「煽ったのは君なんだ。覚悟はできてるよね?」

イエスもノーも言えぬまま、再び混沌の海に飲み込まれて、その日は声が枯れるまで求め続けられたのだった。

20200211
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