安らげる場所

鴎芽1

朝から違和感は感じていた。喉の痛みは平成の世ならのど飴や喉スプレーを使って早めに対処できるが、そんな便利なアイテムは当然明治にはなくて、せめてとうがいをして水分も意識してこまめに取るようにもしていたが、夜には咳も出始めて「ああ、風邪をひいてしまったな」と自覚するぐらいには諸症状が出ていた。
他の人達に移してしまったら申し訳ないと、マスク代わりに手ぬぐいを口元に巻いていたら、春草さんに「……君、何してるの」と訝しまれたのは不本意で、事情を説明すると鴎外さんが帰ってきたら診てもらいなよと、生姜湯を作ってくれたから、やはり優しい人なんだなと礼を述べて受け取った。
普段は夕餉には間に合う時間に帰ることの多い鴎外さんだけど、この日は仕事で帰りが遅く、私は自室で少しでも回復を早めようと早々に床に入っていたのだけど、コンコンと乾いた咳は酷くなる一方で息苦しく、横になるのも辛くて壁にもたれかかっていた。
熱も少し出てきたのかもしれないと、少し前に感じていた寒気からじわりと体内にこもる熱に気だるげに息を吐き出すとまた一つ咳が出る。 ぼんやりと虚空を見つめているとドアがノックされて、鴎外さんが部屋に入ってきた。

「春草から聞いたよ。……顔が赤いね。少し診せてもらうよ」

私の様子に急ぎ近寄ると、喉や額など診察していく鴎外さんに、本当にお医者さんなんだなぁと今更ながらの感想を抱く。

「喉が赤いね。熱はそこからきているのだろう。食事は取れているのなら、水分をこまめに取るように。ーー少し我慢してくれるかい?」

一通りの諸注意を口にした後、おもむろに私を抱き上げた鴎外さんを驚き見上げる。

「お前の部屋では体調に変化があってもすぐに気づけないからね。しばらくは僕の部屋で寝なさい」
「え? それじゃ鴎外さんに風邪が……」
「お前は病人で、何より僕の大切な妻だ。夫が看病するのは当然だろう。余計なことは気にせずに、ゆっくり休んで元気な姿を僕に見せておくれ。そうでないとお前が心配で仕事も手がつかなくなってしまうからね」

それはまずいと素直に身を委ねると、いい子だと微笑まれて、彼の部屋に連れていかれて広いベッドに寝かされる。
すぐに水枕と桶が用意されて、首もとと額が冷やされると、こもっていた熱が解かれて幾分楽になった。

「傍にいるから安心して眠りなさい。熱が下がれば楽になるからね」

ベッドの傍に椅子を用意して座り、頭を撫でてくれる大きな手のひらに安堵して瞼を閉じる。
身体のだるさも辛く感じないのは、鴎外さんがそばにいてくれる安心感からなのか。一人で寝ていたときには感じなかった安らぎに、自然と眠りへ誘われる。
朝、目覚めると熱は下がっていて、身体のだるさもなくなっていた。ほっとして寝返りをうつと目の前に広い胸板が見えて、パチパチと目を瞬くと、ここが鴎外さんの部屋だと思い出した。
見上げると端正な顔に見惚れる。瞼を伏せ眠る姿はさながらギリシャ彫刻のようで、思わず見つめていると突然パチリとその目が開いて、柔らかな笑みが向けられた。

「おはよう子リスちゃん。体調はどうだい?」
「おはようございます。身体のだるさがなくなりました。熱も下がったみたいです」

私の言葉にどれと額に手を伸ばすと、自ら確かめて偽りがないことを確認する。

「うむ、そのようだ。だが油断してはいけないよ。治りかけこそしっかり養生しなくては。今日は一日大事をとって休んでいなさい。――ああ、それとも僕が一日中お前を監視しているのがいいかな?」
「大丈夫です、大人しくしてますから! 鴎外さんは仕事に行ってください」

冗談のような物言いながらも油断すると本気で実行することを知っているから、慌てて主張すると抱き寄せられて「お前が長く苦しむことがなくて良かった」と囁く声に心配をかけてしまったことを悟る。
ごめんなさいと謝ると微笑んで撫でてくれる様に、愛されていることを実感して幸せになる。

「ようやく気を緩めることが出来たのだろう。体調を崩したのは心配したが、お前が僕のそばで安らげているのが嬉しいよ」

私を気遣う鴎外さんの言葉に含まれた意味に気づいて、ああそうなんだと納得する。いまだに記憶の戻らぬ私にとって、確かにこの腕の中は最も安心できる場所だった。
だからとその胸に甘えるようにすり寄ると、降り落ちてきた唇を手のひらで防いで「移るからキスはしばらく禁止です!」と訴える。鴎外さんはショックを受けているけれど、ここで折れてしまっては彼に病の苦しさを共に味わわせてしまうのだと頑なに拒むと、わかったよと微笑まれて。

「お前の風邪が完治した時にこの続きはさせてもらうよ。――もちろん、僕が満足するまでたっぷりとね」

妖しげな微笑みでそう告げる夫が本音であることは今までの経験上わかっていたから、また熱が上がりそうだと赤くなった顔を隠すように俯いたのだった。

【リクエスト:エンド後芽衣が風邪を引く】
20190523
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