ありがとう

春芽19

真っ白な部屋の中、息を吐き出すのも躊躇われる緊迫した空気に、知らず息を詰めていた芽衣は、声を震わせ医師の言葉を繰り返した。

「……じゃあ、春草さんの眼はもう大丈夫なんですね?」
「ええ。急性腎炎に伴う網膜炎は病気の回復にともなって自然に消失し、後遺症はほとんど残りません。幸い、彼も網膜剥離を起こす前でしたから、今後は心配いらないでしょう」

現状の説明に芽衣は涙を溢れさせると、ぽたりぽたりと春草の肩を濡らす。
けれどもそれに不満を述べないのは、それだけ彼女が春草の眼を心配していたことを知っていたからだ。
今後の説明を受けた後に病院を出ると、春草が芽衣を見る。

「ねえ、いい加減泣き止みなよ」
「うう……すみません、止まらなくて……」

診察室からずっと泣き続ける芽衣に、その手を取り引いて歩く。

「――諦めないでいてくれてありがとう」

バッと顔を上げた芽衣と目を合わせると、ゆっくり瞬いてその顔を見る。 以前はぼやけていた視界が、今はこんなにもはっきりと彼女の顔を映してくれる。
眼の異常を感じた時、真っ先に抱いたのは絵を描けなくなることへの恐怖だった。
絶望的な診断を聞きたくなくて、病院へ行くことを渋っていた春草に、けれども芽衣は泣きながら行くように訴えてくれた。
そして平成の世に来てすぐにこちらの病院へ連れてきてくれた。

「君が俺の背を押してくれなかったら、きっと恐れていつまでも診察を受けないままだった。本当のことを知るのが怖くて、病気でもう絵が描けないって言われるのが怖くてずっと誤魔化していたと思う。――でも、同じぐらい君の顔を見れなくなるのが嫌だった。ずっとそばで、君を見ていたかった」
「春草さん……」
「だから診察を受けて良かった。まさかこんなにあっさり治るなんて思わなかったし」

それは平成の医学が明治よりもずっと進んでいたというのもあるだろう。
けれども何より春草が恐れを乗り越え、診察を受けたからこそ、その身を蝕んでいた病を退けられたのだ。

「春草さんの眼が治って本当に良かったです。これでこれからもずっと絵を描けますね」
「それもそうだけど、もうひとつ大切なことがあるんだけど」

え?と瞳を瞬く姿に、顔を近づけ軽く唇を重ねる。

「言ったよね。君のそばで、ずっと君を見ていたいって」

朧な世界から色鮮やかな世界を与えてくれた彼女を離したくなくて抱き寄せると、もう一度ありがとうと告げて口づけた。

20191001
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