言祝ぎ

春芽18

静かな部屋に芽衣の呻く声が響く。
今日、9月21日は彼女の恋人である春草の誕生日なのだが、当日になってもプレゼントを用意できていなかったからだ。
つい先頃までお世話になっていた鴎外の屋敷から2人新居に引っ越したばかりで忙しなかったというのもそうだが、この時代では個人の誕生日を祝う習慣がないらしく、彼本人に何か欲しい物を聞いても「別にないよ」と希望も聞けず、かといってご馳走を作れるほどの料理の腕前もなく、気づけばとっくに午砲も鳴ってしまった。
そろそろ夕飯の支度をしなければ、帰ってきた彼がお腹を空かせてしまうだろうと、竈に火をおこしてため息をつく。
自分ならば牛肉さえあれば満足するが、春草の好みはどちらかといえばさっぱりしたものだからと、干物に胡麻和え、汁物と典型的な和食を用意する。

「やっぱり牛肉も買えば良かったかなぁ」

普段と代わり映えしない献立に、今からでも買いに走ろうかと悩んでいると、玄関からの音で彼の帰宅を知る。
慌てて出迎えると、ただいまと外套を脱ぐ彼から受け取りながら買い物を諦めた。
そうして2人での夕食を終え、風呂も済ませて寝る頃になると、芽衣は泣きたくなってしまった。
結局プレゼントは用意出来ず、ご馳走もない。
特別な日なのに特別に出来なかったことがとても悲しかった。

「芽衣? どうしたの?」

いつまでも布団に入ろうとしないことをいぶかしむ彼に、せめてと顔をあげ言祝ぐと「誕生日?」と眉を寄せられ僅かな間の後に「ああ、今日は俺の生まれた日だっけ」と呟かれた。

「プレゼント、結局決められなくて何もないんです……ごめんなさい」
「プレゼント……ああ、贈り物のことか。君、それをずっと気にしていたわけ?」

数日前から様子がおかしかったことに合点がいった彼は、ちらりと見ると「なら要望今でもいい?」と聞いてきた。
それに一も二もなく頷くと、ならこっちに来てと手招かれて抱きしめられる。

「だったら今日は一緒に寝よう」
「え?」
「別に、約束は破るつもりはないよ。君を一緒に連れていきたいから」

この家に引っ越した当日、彼に抱かれてからほぼ毎日のように求められ、平成のような避妊具などないこの時代で渡米を控えた身ではリスクが高く、それを伝えてからは肌を合わせることもなくなっていた。
けれどもあの激しさを知った身体は、こうして抱き寄せられると途端に鼓動が早まって熱を持ち始めてしまう。

「……君、赤くなりすぎ。もしかして期待してる?」
「違います! ダメです、私も一緒に行きたいんですから!!」

伝わる体温と少しだけ艶めいた声音に、ブンブンとその空気を振り払うように首を振るとため息が聞こえて。

「今日が特別な日だって言うなら君といたいんだ。――君は俺のそばにいるんだって感じていたい」
「え?」 「だからそばにいて。芽衣」

あまり名を呼ばれることが少ない彼の口からこぼれた自分の名前に、暴れていた鼓動が落ち着きを取り戻して、そっと背中に手を伸ばす。
伝わる体温と鼓動に、ここに春草がいるのだと、彼のそばにいられることを実感して満たされる想いに顔をあげると彼を見上げて。

「春草さん、誕生日おめでとうございます」

もう一度言祝ぎを贈ると、降り落ちてきた口づけをそっと受け止めた。

20190922
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