萌芽

春芽16

その日、いつものように公園で写生をしようと歩いていると、バタンと聞こえた物音に振り向くと人が倒れていた。
突然のことに驚いていると、ぐきゅるきゅると豪快な腹の音が辺りに響き渡る。

「最後に……牛丼食べたかった……」
「…………は?」

呟きに目を丸くするも、それきり動かない彼女に、視界に吉野さん家の看板が映る。

「ねえ、君」
「…………」
「そこに牛丼屋があるけど」
「牛……丼……」
「はぁ……」

呼び掛けにわずかに反応するも起き上がらない彼女に、交番に連れていくにも置いていくわけにもいかず深く息を吐くと、肩を揺さぶり声をかける。

「君、自力で歩くなら吉野さん家で牛丼食べさせてあげるけど」
「……!」

いきなりカッと目を見開いた彼女に驚くと、ヨロヨロと立ち上がり歩き出した姿が再びよろめく。咄嗟にその身体を抱き留めると、仕方なしに支えながら店へ連れていった。
席につくと店員が「お?芽衣ちゃんじゃないか。久しぶりだね。今日もいつものアタマの大盛かい?」と、水を差し出しながら告げてきたので、超特盛と自分の並盛を注文した。
牛丼が目の前に運ばれるや、ものすごい勢いで食べ始めた彼女に呆気にとられていると、あっという間に丼は空になり、途端に虚ろに戻る目にはぁ、と自分の分も差し出す。

「え? これはあなたの……」
「いいよ。君の食べっぷりみてたら食欲なくなったから」

再び目に光が宿ったのを確認すると、じゃあと立ち上がる。

「あの……せめてお名前を……」
「……名乗るほどのことじゃないから」

突然目の前に腹を空かせた少女が倒れてきて仕方なしに牛丼屋に連れてきただけ。
これ以上関わる気はないのだからと、伝票を手に支払いをすませると店を後にした。
だからそれは春草にとってはありふれた日常の一幕、とは言い難い体験ではあったが、その時限りで終わった出来事だったから、まさかあの時の彼女が一年後に男装して学校に転入してくるなど考えもしなかった。
それもただ一言、お礼を言いたかったからなんて。

「……君、本当に変わってるよ」

膠の匂いをとんこつのようで美味しそうだと言ってみたり、性別を偽ってまで探しにきたり。
考えが浅いだけと言ってしまえばそれだけだが、それでも嫌な気分にはならなくて不思議な心地がする。
男子校で女子との接触がほとんどなく、他校の生徒から声をかけられてもよく知らない相手と話す気にはならないから、こうして女子と接すること事態が珍しいからだろうか。

初めて会った時から男には見えなくて、なんとなく見ていたら着替えに大慌てで走り去るから、心配になってその姿を探すと案の定考えなしに空き教室でカーテンも閉めずに着替えていて、それからはどこか気にかけるようになっていた。
別に女子だから興味があったわけではなく、危なっかしい行動が自然と目に入るからだったが、気づけばその姿を視界にいれるようになっていた。
その感情が何かは今は知りたいとは思わない。
男装している彼女に対して不毛でしかないし、それになんだか悔しくもある。――でも。
「そろそろかな」

時間を見計らい、立ち上がると向かうのは保健室。
ただの睡眠場所だった保健室は彼女と争奪戦を繰り広げる場に代わり、今ではそれを楽しみにしている自分を自覚しながら足早に歩いていった。

20190906
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