居場所

春芽15

満ちていく月に心が揺れる。
ここに来た頃は、チャーリーさんとの約束の日が待ち遠しかった。
いきなり明治にタイムスリップしたなんて言われて、わけもわからず連れていかれた鹿鳴館に置き去りにされて、どうすればいいか分からずに差し伸べられた手を惑いながら掴んで、そのまま鴎外さんの厚意に甘えて屋敷に置いてもらった。
けれども文字の読み方や服装さえも異なるこの世界は、乏しい記憶の中に残る平成の世界とあまりにも違くてどうしていいか分からなくて毎日が手探りの中、同じく鴎外さんの屋敷に居候している春草さんと関わることが多くなった。
銀座を案内してもらってラムネをご馳走になったり、学校の成績物展に連れていってもらったり、日々を重ねる中で芽生え始めた想い。
けれどもそれに目を向けるわけにはいかなくて、無意識に自分の想いから目を背けた。
だから春草さんに好きだと言われた時には嬉しかったけれども、素直に喜ぶわけにはいかなかった。
だって満月はもうすぐで、私は元の世界に帰るから。
私がいた世界はここではなくて、きっと元の世界には家族も友達もいたはず。
だから帰らなければいけないのだとそう思って、けれども揺れる心が月に惑う。
あんなに満ちて欲しいと思っていたのに、今はまだ満ちないでと願ってしまう。
春草さんのそばにいたいと思ってしまう。

だから春草さんが私の絵を完成させるのを躊躇っていた理由を聞いた時に、もしこの絵が化ノ神になったらと、そんな考えがよぎった。
もしもこの絵の私が抜け出たら、きっと黒猫とは違って春草さんの元に行くはず。
そうしたら明日私がいなくなっても、彼を悲しませなくてもすむかもしれない――と。

そんな私の思いが通じたのか、朝目覚めると春草さんが焦った顔で「絵から君がいなくなった」と部屋に駆け込んできた。
私までいなくなってしまったんじゃないかと確かめにきたようで、ギュッと抱き寄せられ、大丈夫ですと応えながら「ここにいます」とは言えなかった。
――だって私は今夜、帰るのだから。

春草さんが学校に行ってからは、いつものようにフミさんの手伝いをしながら自分の部屋の片付けをした。
立つ鳥跡を濁さず。こんなにお世話になりながら何もお返し出来ないのだから、せめてもと部屋を整えていると、この世界に来てからの日々が思い出された。
初めて会った時は暗闇に怯える私に怪談話をして怖がらせて。
でも黒猫を探しに出た私が暗がりに足元が見えずに転びかけた時には助けてくれて、そのまま手を引き歩いてくれた。
意地悪で、でも優しくて、そんな春草さんに気づけば惹かれていた。

「クリムソン・レーキ。ウルトラマリン、ビリジアン、ガムボージ」

そらんじるように呟いた単語は、牛鍋屋のステンドグラスに見惚れていた私に春草さんが教えてくれた色の名前。
魔法の呪文みたいと思ったそれらは、けれども自然と耳に残った。
ふと、傾く陽に夜が近いことを知る。
借りていた着物を綺麗にたたんで制服に着替え部屋を出ると、隣のドアを見つめた。
視界に映る鮮やかな山吹色。

「……やっぱり」

そこにいたのは山吹色のドレスを纏った芽衣。
絵から抜け出した彼女は、けれどもどこに行くのでもなく、彼のそばを選んだ。

「春草さんを、お願いね」

彼女に乞うとふわりと微笑む姿に胸が痛む。
ギュッとスカートを握ると、逃げるように屋敷を出た。
行かなきゃ、早く。
戻りたいと悲鳴をあげる心に逆らって駆けていると、辺りの喧騒に足を止める。
日比谷公園に来たつもりなのに、何故かそこはお祭りが行われていて戸惑ったが。
――でもきっと会える。
その確信は当たって、チャーリーさんと会えた私はけれども帰りたいと言えなかった。
あんなにこの日を待ち望んでいたはずなのに。

「それなら、離れなければいいよ。離れたくなければ、離れなければいい。おそらくその人も君と同じことを思っているはずだ」

難なく答えるチャーリーさんに喧騒が遠のいて、パチリと指を鳴らす音にぼんやりとしていた意識が戻る。
手に伝わるぬくもり。
見上げるとそこには何故か春草さんがいて、「家に帰るんだろ」と手を引かれて歩き出した。
どうしてここに春草さんがいるんだろうとか、どこに帰るんだろうとかわからないのに、迷う必要はないと言う春草さんに、ああそうかと納得してしまう。
その時、目の前に山吹色の色彩が広がって、現れた「私」に息をのむと、春草さんがまっすぐに「私」を見る。

「君は俺が望んでいる君じゃない」

きっぱりと言い切り、きゅっと繋いだ手に力がこめられると、山吹色のドレスの私が微笑んで、スウ……ッとその姿が淡くなり消える。
戻ったのだと、そう思うと再び歩き出した春草さんに足を止めて、振り返った彼に問うた。

「いいんですか? 春草さんも一緒で」
「何? まだ俺を置いていく気?」

つり上がった眉と険しい視線に戸惑うと、春草さんが小さく息を吐く。

「好きだって、何度言えば分かるんだ」
「……!」
「一人でなんて帰らせない。絵の中の君で俺が納得すると思ったの? そんなわけないだろ」

思っていたことを見抜くように告げる春草さんに、辺りが光に包まれて。
離さないと繋がれた手に、離さないでと強く願った。



君の絵を仕上げたあの日、奇術師が現れたんだ。
こんな真夜中になんで俺の部屋に見知らぬ人間がいるんだとか、そんなことを追及する間もなくそいつは言った。
君が俺を置いて消えようとしてるって。
君がよく月を見上げていたことは知っていたし、もしかしたら記憶が戻ったのかもしれないって思ってた。
だから奇術師が持ちかけてきた取引を受け入れたんだ。
君と、君以外のすべてと、どちらか一方しか選べないのなら、俺は君を選ぶ。
だから、もう二度と俺から離れないで。
俺は絵の君で満足する気はない。
目の前の君が、俺の君なんだから。
だから、君が帰るのなら俺もついていく。
たとえそこが見知らぬ場所でも――世界でも。
君がいるところが俺のいる場所だから。

20190824
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