据え膳

桃芽5

「はわぁ~気持ち良かったです~」

湯屋から戻った芽衣の言葉に音二郎が苦笑する。

「お前、本当に風呂が好きだよな」
「はい! 置屋に住めて良かったです」

この時代はまだ個人で風呂を所有するものは少なく、大体は銭湯か行水だと知ったときにはかなり衝撃だった。
けれども幸いにも女性が多く住まうからか湯屋が隣接しており、仕事後の妓女が使う時間が定められているので、気兼ねなく使うことが出来るのはありがたかった。

「はは、それは良かったな。岩崎あたりが聞いたら非効率だとか抜かしそうだが」
「そんなことないですよ! こんな気持ちいいんだから、効率だってアップするはずです!」

拳を握って力説すると、俺にじゃなくてアイツに言えと呆れられて、それもそうだと乗り出していた身を引く。

(でも、確かに桃介さんならそう言いそうだよね……)

物事を順序よく、効率的に行うことを好む桃介のことを思うと、音二郎の指摘は正しいのだろう。でも。

「今度、温泉に誘ってみようかな」

そもそも旅行は好きだと言っていたし、最近名古屋への出張が続いて疲れが見えるのも気になっていた芽衣は、温泉はリラックスするものだしと名案だと意気込むと、寝るぞーと灯りを消す音二郎の隣の布団に潜り込む。

(少し時間がある日を聞いてみよう)

そう決めると、瞼を閉じて眠りへ誘われる。
数日後、桃介の誘いを受けて慶応義塾の研究室を訪れた芽衣は、彼の仕事が一段落ついたところで話を切り出した。

「旅行、ですか」
「はい。最近、桃介さん疲れているようですし、たまには温泉でのんびりするのもいいと思うんです」

そう提案して反応を窺うと、にこりと微笑まれて「それはいいですね」と同意を示す様にホッと安堵する。

「良かった……。温泉は非効率だって嫌がられたらどうしようかと思っていたんです」
「確かに私はシャワーを利用していますが、あなたと過ごせる時間をそのように思いはしませんよ。――それに据え膳は戴く主義ですから」
「?」

桃介の返答に首を傾げる芽衣に、しかし手の内を丁寧に教えてやるほど無欲ではないので、笑ってその場を流すと深く追及されないことをいいことに予定を組み立ててしまう。
温泉といえば混浴が当たり前であることを、きっと芽衣は知らないのだろう。
そうでなければ恥ずかしがり屋の彼女のことだ、このような提案などするはずもなかった。

「あなたと遠出をするのは初めてですから、楽しみですね」
「はい! 私も、楽しみです」

無邪気に喜ぶ様は無垢で、だからこそ男を――桃介を惹き付けることを知らない芽衣が、旅先で彼の思惑に大いに慌てることになるのはこの後のことだった。

→温泉旅行編も読む

20190502
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