箱根湯けむり旅情綺譚

桃芽7

芽衣が温泉旅行を提案してから十日もたたないうちにあれよあれよと計画が進んで、今二人は箱根に向かう陸蒸気に乗っていた。
あんなにも忙しい日々を過ごしていた桃介がどうやって休みを捻出したのだろうと心配するも、「急ぎのものはすべて済ませてきました」と涼しい笑顔で言われてしまえばそれ以上の追及も出来ず、そろりと彼の様子を見る。

「そろそろお弁当はいかがですか? 特別に作ってもらった牛肉のしぐれ煮弁当です」
「いただきます!」

差し出された弁当をサッと受け取ると、ウキウキと蓋を開けて、ご飯を埋め尽くす牛肉に目を輝かせる。
先程駅弁を買おうとした時に、もう用意してありますと言われやめたのだが、この頃の駅弁はバリエーションがなくおにぎりにたくあんのみというシンプルなものだったので、桃介の心遣いに心の底から感謝する。

「どうですか、お味は。いろはの牛鍋のようにとはいかないでしょうが……」
「~~美味しいです!!」

当然ながら冷めてはいるが肉の柔らかさは申し分なく、味もしっかり染みていてご飯がいくらでも進む美味しさに舌が蕩ける。そんな芽衣に「良かったら私の分もどうぞ」と勧められ、悪いと辞退するも遠慮なくと言われてしまえば牛肉の誘惑に勝てず、しっかり特製駅弁を二つお腹に納めると、満足気に車窓を見る。

「陸蒸気の後は馬車鉄道に乗り換えるんですよね?」
「ええ。ここからおよそ一時間半ほどで宿に着くと思います。荷物を置いた後、宿周辺を散策してみましょうか」
「はい! 楽しみです!」

初めて乗る陸蒸気も、初めての桃介との旅行も嬉しくてつい声が弾んでしまう。彼も「私も楽しみですよ」と微笑んでくれるから、余計にワクワクが止まらない。元々旅行が好きだと聞いていたので、桃介も楽しんでくれているのが嬉しくて顔がほころぶと、そんな芽衣を見て桃介もまた満たされていたのだった。

**

辿り着いた箱根湯本は雪化粧を纏っていて、源泉から立ち上る湯けむりに温泉町に来たのだと感じる。
駅からの道にはずらりと土産屋が軒を連ねていて、現代ほどの賑わいは見られないがそれでも浴衣姿の人とすれ違うのが新鮮で、つい人が集まってる方へと引き寄せられてしまうと、手を引かれて桃介の指が絡む。

「はぐれてしまっては大変ですので」
「あ、そうですね」

つい今、ふらふらと一人歩いていこうとした身では恥ずかしいと断ることも出来ず、そのまま手を繋いで並んで歩く。

「あそこに温泉饅頭がありますね。買いましょうか?」
「はい」

食べ物=私、の図は気になるものの、誘惑に抗えずに頷けば桃介が買ってくれて、また次の店を一緒に眺める。

「湯の花もありますよ。でも、桃介さんはお風呂じゃなくてシャワー派でしたっけ?」
「効率を考えるとシャワーを利用しますが、芽衣さんはお風呂がお好きなのですよね? あなたが一緒に入ってくださるのなら、風呂も好きになりそうです」
「ええっ!? 冗談ですよね?」
「どうでしょう?」

相変わらず本気なのか、からかっているのかがわからずに顔を赤らめると「買いますか?」と尋ねられて、やめておきますと小さく首を振った。

**

由緒正しそうな宿はこの界隈でも特に立派な建物で、通された部屋も広くて整えられた庭園は息を飲む他なく、考えていたよりもずっと豪華で芽衣は驚き桃介を見る。

「この部屋はお気に召したようですね」
「はい。こんな素敵なところに連れてきてくださってありがとうございます」
「ここは大浴場もありますが、部屋にも温泉があるんですよ」
「え、そうなんですか?」

桃介に言われて庭園を覗くと確かに湯けむりが立ち上っていて、さらに豪華さが増す。

「一緒に入りましょうか?」
「……!!!」

いつの間にか後ろに立っていた桃介の耳元の囁きに身を震わせると、え?と言葉を失う。桃介との結婚は決まっていたが、まだ肌を見せ合うようなことはなく、今更ながらに同室の重みに戸惑ってしまう。

「冗談ですよ。せっかくですから、他の宿泊客が来る前に宿自慢の温泉を堪能しましょう」
「は、はい」

からかいだったのだと、火照った顔を誤魔化すように荷物を漁ると手拭いを手に温泉に向かう。髪を結い上げ、男女別々の暖簾をくぐると雪化粧を施した雄大な景色が見えて、わあっと歓喜の声を上げると急かせかと身体を洗って湯船に入った。
少し熱めのお湯だが、外気が低いために丁度よく、心地よさにリラックスしていると「お湯の具合はどうですか?」と桃介が尋ねる。

「外が冷たいから丁度いいですよね。桃介さんはどうですか?」
「そうですね。とても気が休まりますね」
「良かった。桃介さんにゆっくりしてもらいたくて来たので安心しました」

彼の返事にホッと安堵すると、思いがけず声が近かった事実に気づく。

(衝立に気づかなかったけど、男湯も結構近いのかな?)

湯気でほとんど辺りが見えないためわからなかったが、案外男湯は近いのだろうかと耳を澄ませるとチャポンと水音がして、その違和感に身を固まらせる。

(脱衣場に他の人の着物はなかったよね?)

つまり、女湯にいるのは芽衣だけのはず。なのにすぐそばに他者の気配を感じて身を強張らせていると、風が湯気を吹き飛ばしていって、現れた人に目を見張る。

「桃介さん!?」

確かに男湯に入っていったはずの桃介がそこにいて、思わぬ事態に混乱する。間違えて入ったなどあるはずもなく、どうしてかと頭を悩ませていると、桃介が涼しい笑顔で正解を告げる。

「この温泉は入口こそ分かれてはいますが、中は繋がっている……つまりは混浴ですね」
「!!!!!!」

よもや入口が別だったためにまさか混浴などとは思いもよらず、そうならそうと説明してほしかったと、女将の顔を思い出して恨んでしまう。
バッと勢いよく背を向けると、少しずつ距離を取る。さすがに混浴なんて心の準備は出来てなくて、動揺せずにはいられなかった。

「芽衣さん、あまり離れない方がいいかと。先程サルがいましたので」
「サル!?」
「ええ。山深いですから野生の動物も寄ってくるのでしょう」

サルが危害を加えてくるかはわからないが、野生のサルと一人で対峙する気にはなれなくて桃介のそばへ戻っていく。
上がるにも手拭いだけですべてを隠すなど不可能で、湯気が再び立ち込めるのを願いながら、ちらりと桃介の様子を窺う。水気を帯びた髪は普段と比べて広がりが押さえられていて、また違った印象を与えるが。

(やっぱり桃介さんは綺麗だな……)

水も滴るいい男とはよくいうもんだなどと考えていると目が合って、見ていたことがバレて焦ると「もっと見てもらっても構いませんよ」と微笑まれる。

「あなたが温泉に誘ってくださった時にはなんて大胆な人だと驚きましたが、やはり知らなかったようですね」
「知りません! というか、混浴だってわかっていたら……」

入らない。その選択肢がそもそもないことに気づいて口ごもる。部屋湯も桃介と同室である以上、条件は変わらなかった。

「嬉しかったんです。あなたが私の身を気遣い、誘ってくださったことが。改めてお礼を言わせてください。ありがとうございます、芽衣さん」

そんな風に言われたら文句なんて言えなくて、視線を落とすと「……私もです」と同意する。同室とか混浴だとかは全く頭になかったのだが、桃介が喜んでくれた……それだけでもう芽衣の希望は叶っていた。
せめてお湯が乳白色で透けないことをありがたく思うことにすると、ちゅっと耳に口づけられて。

「場所はわきまえるつもりですので、後程部屋湯も楽しみましょうね」

妖艶に微笑む姿に、やはり旅行は誤ったかもと後悔するも後の祭りだった。

20190515
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