甘い貴方

桃芽6

微睡みからゆっくりと浮上する意識に呼応して目蓋を開けると、飛び込んできた景色に一瞬で目が覚めた。すぐ隣で眠る存在。それは芽衣がこの明治の世に残ることを決めた大切な人――桃介。
穏やかな呼吸を繰り返す肩は緩やかに上下していて眠っているのは確かなのに、その腕はしっかりと芽衣を抱き寄せていて、彼の想いの深さを感じて顔が熱くなる。
桃介と共に暮らすようになってから寝室が同じだと知って、芽衣は大いに焦ったのだが「芽衣さんは夫婦別室がお好みですか?」と言われてしまえば違いますと首を振るしかなく。それからは毎晩、隣で眠る彼に逸る鼓動を押さえられないでいた。

(本当に綺麗な人だな……)

整った容姿と見目の麗しさは女性を惹きつけてやまず、本人は「財に目がくらんでいるだけですよ」と自身の魅力を過小評価しているがそんなわけはなく、花街でなくとも町ですれ違う度に衆目を集めていた。
一方の自分といえば、平均的と言われる特に目を引く要素もない容姿で、平成の世からタイムスリップしたという肩書きがなければ彼は見向きもしなかったのではないだろうかと今でも思っていた。
明治の世では前衛的な考えを持つ桃介は、物の怪が母を奪ったと思っていたことからまだ一般的には普及していない電気の発展に尽力していて、けれども未知の利器に周知が追いつかずに鳴り物扱いされていた。
そのことにもどかしい思いを抱いていたのだろう、だから電気が普及しているのが当たり前の場所からやってきた芽衣は彼の考えに賛同出来たゆえに彼の興味を引いたのだ。
もちろん、それだけが彼の心を捕らえたなどとは思わない。結婚にまで結びついた絆は間違いなく彼と交流する中で、互いに抱いた想いだとわかってもいる。
それでもこんなにも容姿端麗で仕事も出来て財もある、そんな桃介と想いを交わせたことは今でも夢心地で、彼の妻ですと胸を張れる自信はなかった。

(頑張らないと……)

彼はそのままの私でいいと言ってくれるけれども、ただ家で忙しい夫を待つのではなく、出来ればその力になりたい。そう思い、出来ることを模索していた。
付き合いで鹿鳴館にも行くことがあったので、ダンスを覚える必要があるし、彼の交友関係に合わせられる知識も必要だろう。彼の書斎の本は芽衣には難しすぎるものが多いが、松永や鴎外に相談すれば読みやすい本を紹介してもらえるかもしれないと、今後のことに思いを馳せているとギシリとベットが軋んで、視線を上げると空色の瞳が私を映していた。

「……おはようございます。今日はずいぶん早くお目覚めなんですね」
「おはようございます。桃介さんはずっと忙しかったんですから、もう少し眠っていても大丈夫ですよ」

普段芽衣より起きるのが早い桃介が寝過ごしているところからも彼の疲労は見てとれてそう促すも、空色の瞳が閉じることはなく。

「ずいぶん思案されていたようですが何を考えていたんですか?」
「えっと、勉強についてです」
「勉強、ですか?」

想定外の答えだったのか、丸く見開かれた瞳に頷くと、先程考えていたことを伝える。

「ではダンスは講師を手配しましょう。出来れば私がお相手したいのですが、時間が出来るまでお待たせするのも申し訳ありませんし」
「ありがとうございます」
「それと、松永くんと森さんへの相談は不要です。本は私が見繕います」
「でも、桃介さんは忙しいですし……」
「元々私の研究分野です。本なら書斎に溢れていますし、あなたが知りたいと思って下さったんです。こんな嬉しいことはありません」

そんなふうに微笑まれたら遠慮するのも難しく、わかりましたお願いしますと素直に提案を受け入れた。彼の提案の半分は、嫉妬からのものだとわかってもいたから。

「それと、あなたは私の髪に触れるのがお好きですね」
「……あ! ご、ごめんなさい!」

無意識に触れていた髪から手を離そうとすると構いませんとその手を取られて、行き場のなくなった手は再び彼の髪を弄り始める。
癖のある髪はふわふわと柔らかく、初めて触れて以来すっかり癖になって気づくと手を伸ばしてしまっていた。けれども桃介はそれを咎めず、「他者に触れられるのは心地好いものなんですね」なんて幸せそうに微笑んでくれるから、余計に触れるようになってしまった。

「桃介さんは嫌じゃないですか?」
「ええ。あなたの手は優しく慈しむように撫でますから。あまりに心地好くて少し気恥ずかしくはありますが」
「?」
どうして心地好いのが気恥ずかしいのかわからないが、彼に安心してもらえているのなら良かったと微笑む。

「存外あなたは母性的なようだ。ですが私の前では善き母であるより可愛らしいあなたを見せてくれませんか?」

それはどういうことかと問おうとして、視界に広がった彼の色に体勢の変化を知る。その事を理解すると同時に耳を撫でられてぴくんと肩を跳ねさせると微笑まれて。降り落ちてきた唇を受け止めながら、朝寝が可能な時間のタイムリミットを忘れまいと胸に刻んだ。

20190507
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