もう一度出逢える日まで

桃芽3

それから一月ほどが過ぎた頃、再び桃介さんは目の前に現れた。電話番号を渡されたものの、結局その番号にかけることはなく、このまま縁はなくなるとそう思っていた芽衣は驚き彼を見る。

「私が足を運ばなければあなたは会ってはくださらないようなのでそうしたまでです」
「だって、桃介さんは……」
「妻とはもう長く共に過ごしてはいません。名古屋にも一度も来たことはありません」

語られる夫婦関係の希薄さに驚いていると、話があると外に連れ出された。

「あなたが女優をされていたと知ったときには驚きました」
「えっと、これは成り行きで仕方なくというか……」
「海外でも大変人気があったそうですね。あなたを描きたいと、沢山の画家が群がったと聞いています」
「あれはたんに日本女性が珍しかっただけですよ」
「いいえ。この前、あなたの舞台を拝見しましたが、確かに素晴らしくて観劇後もしばらく呆けていたぐらいです」

次々と続く誉めそやす言葉に照れくさく、話ってなんですか? と無理矢理話題を転換する。

「ああ、すみません。本題を伝え忘れていました。近々引退されるというのは本当ですか?」
「はい。元々役者は音二郎さんの要望でやっていただけなんです」
「それでは帝国女優養成所はどうなさるおつもりですか?」

帝国女優養成所は音二郎さんと共に作った後進の女優を育てるための場所で、少しずつ女優の存在が認められてきた世で女優を志す女性が多く通い、小さいながらも活気に満ちていた。

「音二郎くんの信念は常日頃から共感するものがありました。経済界からも支援したいと多くの者が名乗りをあげていると思います」

確かに支援を申し出てくれる人は多く、活動を助けてくれていた。

「もしあなたがよければ、帝国女優養成所を劇場付属技芸学校として、劇場に経営を任せてみてはいかがでしょう」

確かに経営には疎く、いずれは他に委ねることを考えていたので桃介さんの提案はありがたいものだった。だからそれに頷くと、彼は手際よくプランを練っていく。
そうして養成所の道先も決まり、引退公演も終えた芽衣は福岡に足を運んだ。この音二郎さんの故郷に彼の墓を建てることが目的だった。
若い役者が上京するのを見ていたいので汽車が眺められるところに、という彼の願いを叶えて駅の側に建てた墓碑を見上げると、そっとそれを撫でる。
どこまでも懐深く、優しかった音二郎さんはいつも私を気にかけ、助けてくれていた。女優にしたのもきっと自分が亡き後も生きるのに困らないようにとの配慮だったのだろうと、今更ながらに感謝がこみあげる。

「音二郎さん、ありがとうございました」

音二郎さんがいなければ、戻ったこの明治の世で一人どう生きていったか想像も出来なかった。彼が手をさしのべてくれたから、桃介さんの結婚に心破れて泣き暮らすだけの日々を過ごさずにすんだのだ。

「私、頑張りましたよね?」

音二郎さんから託された帝国女優養成所もきちんと軌道にのり、新しい女優も世に羽ばたいている。一座の仲間たちは今やそれぞれが活躍しており、彼の意思はしっかり継がれていた。
それを見届けて、芽衣は表舞台から降りた。元々は音二郎さんの役に少しでもたてたらと始めたのがきっかけで、後進に譲る時がきたからだ。
これからどうするかは定まっていない。
けれども少しでもあの人の気配を感じられる所にいられたらと、名古屋に行こうかと考えていると人の気配がして振り返る。

「桃介さん?」

こちらに歩み寄る人影は桃介さんで、芽衣は目をぱちくり瞬かせると、彼がふっと微笑む。

「あなたがやりたかったことはすべて終えましたか?」
「はい。音二郎さんのお墓も建てられましたし、養成所も桃介さんのおかげで安定して経営が出来ていると聞いています。本当にありがとうございました」
「では、今のあなたは女優ではありませんね。それなら綾月芽衣という一人の女性に私が乞うるのも問題ないはず」

彼の言葉に驚き、声を出せずにいると手を取られる。

「妻とは離縁しました。ですから私があなたを娶るのにもう何も障害はありません」
「え……?」
「だから芽衣さん、どうか私の側に来て下さい。私はどうしてもあなたが欲しいんです」

瞳に宿る光は、過ぎ去った昔に見た自分を求めるもので、けれども戸惑い、その手が取れない。
彼の側にいたいと、確かに願っていた。けれども彼の家庭を壊してまでそれを望むことはできず、この想いは一生心の奥底に封じておくつもりだった。

「どうしても忘れられなかったんです。私は福澤先生の説得に応じてはいけなかった。あなたを送り出してはいけなかった。すべては私が判断を誤ったせいです」
「それは違います! 私があなたの手を離したから、帰ることを選んだから、あなたを苦しめたんです」

出会わなければ良かったなどとは思わなかった。けれども、彼の手を離さなければ……現代に帰ることではなく、彼の側にいることを選んでいたらと、そう後悔していた。

「私はもうあなたの手を取る権利なんてないんです。桃介さんも奥様も苦しめた私が側にいたいなんて思っちゃいけないんです……!」

誤ったのは芽衣の方。芽衣の決断が桃介を苦しめ、彼を恋慕って身体を壊すほど焦がれていた女性を不幸にした。彼ら夫婦の仲がどうであったのかは知り得ないが、幸せな結末を得られなかったのは自分のせいだった。
どこまでも愚かな自分が情けなくて涙をこぼすと引き寄せられて、桃介さんの腕の中に捕らわれる。

「権利なんてどうでもいい! 俺はあなたが欲しい。あなたが俺を拒んでももう放す気はありません。――あなたを愛しているんです」

聞きなれない一人称に驚く間もなく告げられた想いに呆然とする。

「あなたが音二郎くんを慕っているならそれでも構わない。ただ私の側にいてくれれば」
「私は、おと……」

桃介さんの言葉に彼が誤解していることに気づき、訂正しようとするが、頤を持ち上げられて重ねられた唇に言葉を奪われる。思いの丈をすべて伝えるような口づけは熱く、芽衣の心をどうしようもなく焼きつける。

「あなたが誰を想っていようと関係ない。ただあなたが側にいてくれれば、それ以上望みません」
「桃介さ……ん…………っ」
「黙って。ただあなたは頷くだけでいい」

芽衣の話を聞きたくないと、一方的に話して口づけを続ける桃介さんに翻弄されるしかなく、嵐が過ぎ去るのを待つ。
どれ程の時間が過ぎたのだろう、ようやく唇を離した桃介さんに息を乱しながら彼を見上げる。

「そんなの、嫌です」
「…………っ」
「だって、私が好きなのはずっと……桃介さんなんです。だから関係ないなんて言わないでください。私と音二郎さんには何もありません。ただ音二郎さんがずっと私を助けてくれていただけなんです」
「本当ですか? 私は音二郎くんとあなたが恋仲だと聞いたのですが」

それは他でも何度となく誤解されていたが、彼とそういったことは一度もなかった。懐深く慈悲深い音二郎さんがただ芽衣を守り助ける、そんな間柄だった。

「私のことより桃介さんは……」

夫婦仲がどうであったとしても、あの福澤先生の娘さんと離縁など大事だっただろう。それこそ彼の大切な事業に影響を及ぼすのではないかと心配すると、そんな考えを読んだのだろう彼が苦く笑う。

「妻に触れたことは一度もありませんでした。そんな彼女が懐妊などするはずもないでしょう?」
「あ……」

この時代、女性の不貞行為に厳しく、彼が離縁を選ぶのも当然だった。

「彼女を責めるつもりはありません。この結末は私が招いたものです。私も夫として彼女を幸せにしてやれませんでした。だからこの決断は互いの不幸を絶つものなんです」

淡々と語られる夫婦関係に口を挟むことなどできなくて、芽衣は視線を俯かせる。自分の愚かしさが情けなくて、申し訳なかった。

「ごめんなさい……謝ってすむことではありませんが、それでも謝らせてください」
「謝罪は求めません。私が求めているのはただあなたがこの手を取ってくれることだけです」
「でも……」
「もしあなたに償うつもりがあるのなら、それは私の側でしか叶いません。けれども、もしもまだ私を好いていてくださるのなら、償いなどではなく今度こそ私を選んでください」

まっすぐに向けられた目は、ただ芽衣を求めていて、その瞳にどうしようもなく心が揺さぶられる。好きで、側にいたくてこの世界に戻ってきた。けれどもそれは叶わなくて、諦めた想いだった。

私を、側に置いてもらえますか。

図々しい願い。厚かましい願いは口にすることを躊躇われて、震える唇が言葉を紡ぐことを妨げる。願ってはいけないのに、溢れ出す想いが止められなくて視界が潤む。瞬間、強く引き寄せられて、その腕に掻き抱かれる。

「言ってください。私の側にいたいと。あなたに乞うて欲しいんです」

躊躇いに後押しする言葉に促されて、震えた声が願いを口にする。

「側に、いたいです。いさせてください」

言い終わるや再び唇を塞がれて涙がこぼれ落ちる。それは分かれ、違えた道が再び繋がった瞬間だった。

20190416
Index Menu ←Back →Next