募る想い

桃芽11

その日は仕事上の付き合いでパーティーに参加していた。華やかな場できらびやかなドレスを纏った女性と愛想笑いを浮かべて踊る。桃介にとってこれ以上非効率な時間もなく、誘いを断るためにあらかじめ用意しておいた舞踏手帳をこれ見よがしに持ちながら、もうそろそろ退出しても構わないだろう時間を弾き出していた。
今の桃介にとって重要なことは、電気を普及させること。その為の研究や人脈作り以外は価値を見出ださず、このパーティーもそれに紐付くものだからこそ参加していた。

(そろそろ構わないだろう)

時計を確認すると顔見知りに挨拶をして出口へ……そう考えていると、不意にこの場に似つかわしくない荒立った男の声が聞こえてきた。
そちらに目を向けると男は見知った者で、彼に手首を掴まれ、困っている女性の姿に目を見張る。

(あのご婦人は……)

記憶を遡ること四日。桃介はその女性に見覚えがあった。あの時は奇想天外な衣装を身に付けていたが、今日は年相応の女学生らしい衣装。だが仕事柄顔を覚えるのは不得手ではないため間違えはなく、そっと近寄り彼等の遣り取りに耳をすます。
どうやら絡まれているのは彼女の方らしく、場の雰囲気を理解すると胸ポケットにしまった舞踏手帳を再び取り出して、彼女の目の前に差し出した。

「お嬢さん。次は私と踊る番ですよ」

手帳を受け取り、振り返った彼女を庇うようにさりげなく間に割って入ると、目の前に立つ男を見る。
慶応義塾の先輩であり、今は文科省に務めている男――杉谷は、桃介を見ると顔色を変えて掴んでいた彼女の手を離した。
掴まれていたその手首が赤くなっているのに眉を潜めると、正当な理由を並べて相手の反論を封じて、それ以上の遣り取りを拒むように彼女をダンスホールへ連れ出し踊る。
たどたどしいダンスに、不得手なのに誘われて困っていたのかと内心で苦笑すると、彼女が口にした千圓という言葉に目を瞬いた。
彼女のことは思い出していたのに、その記憶の紐付けとなった千圓の遣り取りは記憶から大半追いやられていたのは、彼にとってはもう終わったことであったからだ。
俥代に千圓を求める可笑しな遣り取りを思い出して足りなかったかを問うと、当然ながら「そんなことない、足りすぎた」との答えに笑う。
自分で要求しておきながら怖れおののいている様が可笑しく、一曲が終わるまでのわずかな時間、目の前の女性との会話を楽しむことにした。
綾月芽衣と名乗った彼女は今日ここに来たのは桃介を探すためだと言った。それも更に金をせがむためではなく、あの時の金を返すためだと言う。
その言い分に眉を寄せると、思わず「非効率ですね」と呟いた。借用書があるわけでもなく、慰謝料として支払ったものを返す必要などない。そう告げれば唖然とした彼女は、けれども返したいと引かず主張は平行線のまま曲が止む。
不必要と判断したものをこれ以上議論するつもりもなく、あっさり手を離すと一礼して身を翻した。追い縋る彼女の問いに歩みは止めずに手帳を指し示して鹿鳴館を後にする。 俥に乗り込むと無意識に浮かんでいた笑みに、先程の遣り取りが思い出される。仕事の場だったダンスパーティーで思いがけず彼女と出会ったことは桃介の日常に紛れ込んだ珍事件だったが、それでもそれを無価値だと思っていない自分が可笑しかった。

そんな彼女と再会したのは、ダンスパーティーの翌日。作家の泉鏡花と連れ立ってやって来た彼女は、守衛に妹だと偽ってまで自分に会いに来た。どうやら何がなんでも返したいらしく、これ以上断っても不毛な遣り取りが続くだけだと判断してその偽りの設定を受け入れると、彼女はホッと安堵したようだった。
ようやく気が緩んだのか、キョロキョロと辺りを見渡し、写真や電気に興味を示す。通常女性が惹かれるようなものではないことに興味を持つと、茶請けにと出したチョコレエトに素直に喜び口にする様に、千圓におののく姿とどうにも結びつかず、不思議な女性だという初めの印象がさらに深まった。
たぶん、これが最初に彼女に興味を抱いたひとつだったのだろう。それでも、わざわざ神楽坂まで会いに行こうとまでは思わなかった。また機会があれば話すのも悪くない……その程度だった。
だが不思議と彼女とは縁があるらしく、その二日後、今度は慶応義塾のそばの河原で馬に乗って現れた時には呆れさえした。
俥代に千圓、妹、馬。とにかく彼女は不可思議で興味深い。落馬した際に身を立て直すことよりまずこちらの身を心配するのも面白く、彼女への興味がさらに深まった。
それが決定的となったのは、足を向けた神楽坂の料亭で彼女が三田の関係者と電気について言い争っていた時。
バテレンの妖術だ、夢物語だと電気を理解しようともしない輩に、彼女はそれほど遠くない未来で日本全国に電気は行き渡ると言い切った。
それは売り言葉に買い言葉だったのかもしれない。けれどもかつてそのようなことを口にした者は誰も居なかった。それなのに彼女はそれが真実だとばかりに言い切ったのだ。
もっと彼女が語る未来の話を聞きたい。例えそれが空想や妄想の類いであっても、彼女の発想は先進的で柔軟性に富んだものであり、ある程度の見聞の広さも感じさせた。
だからと、花街の外に連れ出して彼女と二人きり過ごせる場を作った。誰もが知っていそうなことに目を輝かせる様は、彼女が語るように本当にこの時代の人間ではないように世間知らずで、けれども未来から来たなどという与太話を安直に信じられるはずもなく、財閥筋の家出した令嬢かと推理するもあっさり否定されて面白くなる。
彼女は一体何者なのか?
記憶を失っている故か、故意に隠しているのか。その秘密に興味が湧く。花街の女らしくない無垢な様も、幼女のようなあどけなさも、馬を乗りこなす胆力も、次々と目にする彼女の魅力にいつしかすっかり惹かれていることに気がついた時には驚きこそすれ、引き返そうとは思わなかった。

自分の誘いを断る彼女に、それが他の客の誘い故だと知ると、どんな輩か知らずにはいられず、距離を置かれればその距離を詰めずにはいられない。
さらに音二郎に対して無心に慕う様を見て、出会い茶屋に引き込んでしまった。もちろん止む気配のない雨に、これ以上彼女を冷えさせてはいけないと、そのためには手近の茶屋で雨宿りするのが合理的だと判断したのが主たる理由だ。けれども、音二郎に対して思うところがまるでなかったといえば嘘になる。なし崩しに既成事実を作ろうとまでは思わなかったが、牽制の一つにはなるかもしれないと考えてはいた。
実際はあどけなく眠る彼女を前に、布団に寝せてやってその隣に添い寝しただけに過ぎない。こんな据え膳の状況に理性を働かせていられたのは、ひとえに彼女を大切に思っているから。だから己の欲を優先するのではなく、その心を得ることを優先した。

「本当にこんなもどかしい思いをさせられたのはあなただけですよ」

すっかり止まっていたペンを置いて立ち上がると、回想から意識を戻す。最近は仕事をしていても、不意にこうして彼女のことを思うことがあり、そんな変化さえ愛しく思えるのだから可笑しくて仕方ない。
以前の自分なら、仕事の時に女のことを考えるなどあり得なかっただろう。けれども今の自分の優先順位は彼女が一番だと、それが揺らぐことはもうなかったから、身支度を整えようとジャケットを脱ぎ、ネクタイを外すとシャワー室へと歩いていく。
昨夜は仕事に区切りがつかず研究室に泊まったのだが、それもいつものことで、ただ違うとしたらそれはこれから彼女へ会いに行こうとしていることだった。
今日会う約束はしていない。けれども今の自分たちは恋仲で、約束などなくとも会いに行くのに障害はない。何よりきっと突然やって来た自分を、彼女は嫌な顔ひとつせずに出迎えてくれると、そう信じられた。
何より思い返しているぐらいなら彼女に会う方がよほど効率的だと、滞った仕事に意識をわずかに向けると、温かいお湯で身を清めて新しいシャツを羽織る。
目覚めにと紅茶を淹れながら時計を見て、彼女の仕事に影響ない時間を弾き出すと、その後の予定を組み立てカップを煽った。

「もう少しの辛抱とはいえ、これ程待ち遠しいとは……フッ」

名古屋に建てている新居の完成ももう間もなく。出来てしまえばもう彼女に会いに行くことはなくなり、いつでもその存在を感じられるようになる。
その日を心待ちにしている自分に微笑むと、ジャケットを羽織り扉を開く。一刻も早く彼女に会いたい――それだけが心を占めていた。

201906019
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