等価交換

桃芽10

研究室を訪れるとそこに桃介さんの姿はなく、留守なのかと出直そうと考えて、かすかな水音に気がついた。
何だろう?と首を傾げているとすぐに水音が止んで、少しの間の後に奥の扉が開く。

「芽衣さん?」
「……!」

こんにちはと挨拶しようとして、普段とは異なりはだけたシャツに息を飲むと、「ああ、失礼しました」と桃介さんがボタンをかけていく。

「シャワーを浴びていたもので、不躾な格好を見せてしまいましたね」
「い、いえ、私が勝手に入っていたのが悪いので!」

高鳴る鼓動に平静を装おうとしても、顔の熱はすぐには引いてくれなくて、頬を手のひらで包み込んで俯く。
けれども目には先程の光景がしっかり焼き付いてしまい、勝手に脳内で再生される桃介さんの姿にふるふると頭を振ると、くすりと微笑まれた。

「今、紅茶をいれるので座っていてください」
「は、はい」

彼が奥に消えたのを確認するとソファーへ腰かけて、あうぅ……と一人呻く。
男の人の裸など(正確には半裸だが)見たことがなかったので動揺は簡単にはおさまらなくて、なんとか目に焼き付いた光景を忘れようと努めていると、桃介さんが紅茶を持って戻ってきて――何故か隣へ腰かけた。

「桃介さん?」
「はい、なんでしょう?」

普段なら向かいのソファーに座るのに、今日は隣であることを不思議に思うも、桃介さんは何もおかしいことはないとばかりに優雅に紅茶を飲んでいるので、それ以上追及も出来ずに「いえ……」と引く。
それでもつい気になって覗き見ると、髪がまだ湿っていることに気づいて、先程彼が無造作に置いていた手ぬぐいを手に取った。

「桃介さん、まだ髪が濡れてますよ。そのままだと風邪をひいちゃいます」

手ぬぐいを頭に被せ、トントンと挟むように拭っていくと、小さな笑い声が聞こえて彼を覗きこむ。

「桃介さん?」
「いえ、このように人に髪を拭われるのは幼少の頃以来かと、なんだか面映ゆくなりました」
「!」

つい髪を拭ってしまったが、確かに成人男性にすることではないと、慌てて身を引こうとするもその手を取られて。「続けて下さい」と促されて戸惑う。
確かにまだ完全に拭えてはいないが、あまりにも近すぎる距離に気づいてしまえば、先程までのように平然とも出来なくて、どうしていいかわからない。
それでも、このまま固まっているわけにもいかずにのそのそと手を動かすと、思っていたよりもずっと柔らかな感触に気がついた。

(桃介さんの髪、柔らかくてふわふわしてる)

こうして触れるのは初めてで、つい乾き具合を確かめる以上に触れていると、ふふ、と笑う声がして、慌てて髪を離して桃介さんを見る。

「すみません……っ」
「いえ、あなたがあまりにも目を輝かせて触れるので、つい嬉しくて声が出てしまいました」
「嬉しいんですか?」
「ええ。あなたが私に触れたいと思ってくれたんです。こんなに嬉しいことはないでしょう?」

口元に手をやり微笑む桃介さんは本当に嬉しそうで、けれども恥ずかしさがこみ上げてきゅっと目をつむる。

「ありがとうございます。あなたのおかげですっかり乾きました」
「そ、そうですか」
「時に芽衣さん、1つお願いがあるんですが」
「なんですか?」

桃介さんからのお願いなんて珍しく、私に出来ることならと頷くと微笑まれて。

「今度は私にあなたの髪を拭わせてもらえますか?」
「……え?」

どういうことかと停止した思考に、しかし理解が追い付くと無理ですと全力で首を振るも。

「それでは等価交換が成り立ちません。ぜひあなたの髪も拭わせて下さい」

にっこりと、まったく引く気のない桃介さんの笑顔に、その時を考えどうすればいいかと、ぐるぐると考えを巡らせ悩むのだった。

201906011
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