翌日には桃介さんの熱も下がり、安堵するもすぐに研究室に赴こうとする彼にキリリと眉をつりあげ止めた。
「病み上がりなんですから、今日はお仕事禁止です。抱えていた案件もキリがついたって言ってましたよね?」
「ですが、相場のチェックも必要ですし、他にも……」
「それは松永さんにお願いしました。だから桃介さんは今日一日お休みです」
今朝屋敷を訪れた松永さんには伝達済だと伝えれば、仕方なしと諦めてくれたのか、桃介さんがため息をつく。
「あなたも頑固な人ですね」
「桃介さんが無理しすぎなんです」
松永さんから、私が元の世界に戻ってから、桃介さんが寝る間も惜しんで仕事に没頭していたことを聞き、胸が痛んだ。
心配した音二郎さんが気遣い、気晴らしにと強引に飲みに誘うほど彼の心を傷つけたのは間違いなく私だった。
「わかりました。今日の予定は諦めます。着替えを取ってもらえますか?」
「あ、はい。これでいいですか?」
「ありがとうございます。よければ手伝ってもらえますか?」
「ええ!?」
「ははっ、冗談です。あなたが望むのなら手伝ってくださっても構いませんが」
「外に出てますからお一人で着替えてください!」
またいつものようにからかわれたのだと、そうわかっていてもいちいち反応してしまう自分が恥ずかしくて、慌てて部屋を出ようと身を翻すが「待ってください」と手を取られる。
「すみません、冗談が過ぎました。ですが、休むならあなたと過ごしたいんです」
「体調が大丈夫なら、私も桃介さんと一緒に過ごしたいです。あ、朝食は起きれますか? 無理なら部屋に運んでもらいますけど」
「大丈夫ですよ。着替えたら下に降ります」
「わかりました」
確認してから部屋を出ると、しばらくしてから桃介さんもリビングへ降りてくる。
用意された朝食を二人で食べた後は、サンルームで紅茶を飲みつつ私の思い出した記憶や未来の話、そして私がいなかった間の桃介さんの話を語り合った。
「少し前に興味深い本を見つけたんです。ハーバード・ジョージ・ウェルズの『タイム・マシン』という小説なんですが、ある発明家が過去と未来を自由に行き来できる機械を発明する話なんです」
「タイムマシン、ですか?」
「ええ。主人公はその機械を使って、80万年後の未来にたどり着くことに成功します。もっとも、100年後の未来でもまだ確立できていない技術のようなので、音二郎くんの言うとおり、空想小説なのでしょう。ですが、あなたが話す未来も今の世では想像の及ばない世界ですが、ギラッギラに眩しいぐらい光が溢れているのでしょう?」
「……それはもう忘れてください」
「忘れませんよ。あなたと話したことは全て記憶しています」
ついむきになって話した時のことに顔を赤らめるも、幸せそうに語る桃介に毒気を抜かれる。
「80万年後は想像が及びませんが、まずはあなたが仰っていたギラッギラに光を照らす未来の実現を目指したいと思います。そのためにまずは木曽川に発電所を作り、水力を使ってより広範囲に電気を普及させます。ダムと水流調節装置があれば長距離送電が実現するだけでなく、水害防止にも役立つ」
「はあ」
「そのためには水利権を手に入れて、開発調査を進める必要があります。200キロメートル以上の大工事ですからね。そこであなたにお願いがあるんです」
「なんでしょうか」
あまりにもスケールの大きい話に圧倒されていたので、急に話が自分に向けられて驚き身を正す。
「私と一緒に名古屋に来てもらえませんか」
「名古屋、ですか?」
「はい。あなたが側にいてくだされば、私は迷わず夢を追える。何より私があなたと離れていることに耐えられないんです」
桃介さんの話に、急浮上した結婚の理由を理解して、戸惑い揺れていた思いが静かに定まる。
彼と離れて暮らすことなど私も考えられなかった。
「連れていってください。どこまでも、桃介さんと一緒に行きます」
頷くと手を取られて、恭しく甲に口付けられる。
「ありがとうございます。それならなおのこと急がなければなりませんね。ドレスを取り寄せるにも時間がかかりますし、ああ、音二郎くんの都合も確認しなければなりません」
「え? あの?」
「あなたの花嫁姿を独り占めしたい気持ちもありますが、音二郎くんはあなたを拾ってくれた恩義もあります。ああ、置屋の女将もあなたの親同然の方ですね」
どんどん進んでいく話についていけずにぽかーんと呆けていたが、『親』という言葉に平成の家族を思い出す。
突然失踪した娘をもしかしたら探してくれているかもしれない。
けれどももうあの時代へ帰ることは叶わないし、何より彼の側にいたいとそう願ってしまった。
ただ何も言えずに来てしまったことは心残りで顔を俯くと、温かな温もりが包み込む。
「あなたが私を選んだことで失ったもの。それらのすべてに代わることは出来ないかもしれません。それでも、私は必ずあなたを幸せにします。苦労も寂しい思いもさせません。あなたを一人にはさせません」
「…………っ」
「だからどうか私に彼女をください。私には芽衣さんが必要なんです」
最後の言葉は、遠い時代にいる家族に向けられたもので、頬を熱い涙が伝い落ちる。
(お父さん、お母さん、この人が私の大切な人です)
今まで育ててくれた感謝も、勝手にこの世界を選んでしまったことへの謝罪も伝えられないけれど。
(この人のことが好きなんです)
元の世界のすべてを捨てることになっても、それでもこの人の側にいたいと願ったから。
「芽衣さん、あなたを愛してます」
「私も……桃介さんが好きです」
恋も知らなかった私が好きになった人。
一度はその手を振り払って、けれども苦しくて、もう一度会いたくて……もう離れたくなくて。
この思いを愛と呼ぶなら、きっと私は桃介さんを愛しているのだろう。
罪悪感がないわけじゃない。胸が痛まないわけじゃない。
それでも、どうしてもこの人と離れることはできなくて、その手を取りたいと強く願ってしまったから。
夕闇に染まり始めた空に浮かぶ月を彼の背中越しに見つめながら目を閉じて、別離と共にその口づけを受け入れた。
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