桃介さんに連れられて来たのは見慣れない洋風の屋敷で、てっきり置屋に行くのだと思った私は、問うように彼を見た。
「ここは私の自宅です。もっとも最近は全く帰っていなかったので、音二郎くんには愛人を囲っているなどと艶聞を疑われましたが」
桃介さんの言葉に、そんな話を交わした記憶と共に、その存在を思い出した。
(私、音二郎さんに何も言わずに帰ったんだ……!)
どう説明すればいいのかわからなくて、あんなにお世話になっておきながら、手紙ひとつ残すことしかできなくて、きちんとお礼もお詫びも出来なかったことを思い出して身を翻しかけるが、「どこに行くんです?」としっかり手首を捕獲されて説明を求められる。
「あの、私、音二郎さんや女将さんに何も言わずに帰ってしまったんです。だからきちんと謝りたくて……」
「音二郎くんなら大丈夫ですよ。あなたのことは記憶を取り戻して郷里に戻ったと、そう思っています。女将さんも彼からそう聞いているはずです」
「そう、ですか……」
それでもやはり戻ったからにはきちんと話すべきだろうと思うも、一向に手首が解放される気配はなくて、戸惑い眉を下げると桃介さんがこちらを見る。
「あなたが出ていったりしないのなら放しますよ」
「……わかりました」
約束ですよ、と念を押してから手首を放した桃介さんに促されてソファへ座る。そうして何とはなしに室内を見渡して、改めてここが桃介さんの家なんだと実感した。
「どうしました?」
「いえ……私、桃介さんのお家にいるんだなって」
「ああ、あなたとはいつも外か研究室か神楽坂で会っていましたからね」
元々客とお酌という間柄を思えば当然なのだが、そんな自分が彼の家にいることが不思議で、今更ながらに緊張してくる。
「そんなに意識されては、何か応えたくなりますね」
「な、何かってなんですか?」
「そうですね……たとえば」
隣から身を乗り出されて顎を持ち上げられ、今にも唇が触れ合いそうな距離にどくんと鼓動が跳ね上がる。
「口づけてあなたのすべてを手に入れてしまいましょうか」
「!!」
「冗談です。せっかく戻ってきてくださったあなたに嫌われたくはありませんからね」
指先で下唇をなぞるように撫で、元の位置に座り直した桃介さんにほぉと安堵の吐息を漏らすも鼓動は鳴り止まなくて。
(桃介さんになら……私……)
浮かんだ思いにハッとすると芽衣さん?と覗きこまれて、何でもないですと頭を振る。その姿に目元を緩めて桃介さんが笑む。
「……本当にあなたはここにいるんですね」
「桃介さん、まだ幻だって疑ってたんですか?」
「ええ。今は朧ノ刻。境界が曖昧になる時間ですから」
確かに陽も暮れ外は暗闇に包まれているが、彼の屋敷は煌々と電気が灯されているから、闇を好む物の怪は存在できないだろう。
そう思って見上げれば、こちらの言いたいことなどお見通しなのだろう。
桃介さんは笑みを深めて私を見る。
「あなたを物の怪と間違えたりはしませんよ。ただあなたは私の手の届かないところへ行くことができるので」
「それは、私の力じゃなくて……」
(私の力じゃなくて……なに?)
反論しかけて、続けられない言葉に疑問が浮かぶ。
(そういえば私、どうやってこの世界に戻ってきたの?)
如何にこの時代よりも文明が進化しているとはいえ、タイムスリップなんて映画や本の世界の出来事でしかない。
なのに私はすでに三度それを経験していた。
(そもそもどうしてこの世界に来たんだっけ?)
この世界に来るきっかけが何かあったはずなのに、それを思い出すことがどうしても出来ない。
その事に驚いていると、「それにしても……」と呟く桃介さんの声に意識を引き戻される。
「その装いは以前見たものとは異なりますね」
「あ、前のは制服でこれは私服ですから」
「あなたは普段もこのように短い洋装を着てるんですね」
桃介さんの指摘に自分の格好を見返して、そういえばこの時代は足をさらすことは破廉恥と思われるのだと思い出す。
「あの、これは別に私が破廉恥だからなわけじゃなくて、未来ではこれが女の人の普通の服装で……」
子どもも大人もスカートは履くし、ロング丈ももちろんあるけど膝丈もおかしいことじゃないんだと慌てて説明する。
そんな私にわかっていますよと笑いながら、ふと太股に触れた掌に、え?と彼を見る。
「森さんなら機能的で斬新だと手放しで誉めるでしょう。それにあなたによく似合っていると思いますよ」
「あの、桃介さん?」
「ただ……」
ぐぐっと迫ってきた身体に押されてソファへ倒れこむとその上にのしかかられて、いつぞやと逆の態勢に何が起こっているのかと固まった。
「この装いは男を大層惑わせる。それこそ男は皆思うでしょう。この女は俺を誘っている、と」
「!」
聞き覚えのある台詞は以前警告された時のもの。
瞬時に呼び起こされた記憶に、そんなつもりじゃないと言いかけて、するりと太股を撫でられて大きく身を震わす。
「ほら、こんなに簡単にあなたの肌に触れられてしまう。……もしかして私を誘ってるんですか?」
「違います! 私はそんなつもりじゃ……」
「そんなつもりでないなら、この装いは今後私の前だけでお願いします。そう約束していただけないなら……」
「します、というかもう着ません!」
「それは残念ですね。実に機能的だと思ったんですが」
それはどういう意味でですか!?、と聞き返そうかと思ったけれど、墓穴を掘りそうだとかろうじて言葉を飲み込むと、そんな私に妖しく微笑み「理由を聞かないんですか?」と問いかける様に、桃介さんの方が誘ってませんかと顔を赤らめた。
彼のことは好きだ。だからといって、戻ってきたその日にいきなりというのはその、心の準備が伴わない。
先程の一瞬はこの先を望むような思いも抱いたが、それは戻ったばかりで情緒不安定だったというか、とにかくその場の勢いみたいなものだったのだろう。そう思っておく。
「今日はここまでにしておきます。あなたがここにいてくださるこの奇跡を失いたくはありませんから」
さあ、と伸ばされた手を取り身を起こすと、慌ててスカートの裾を直す私に、桃介さんが笑いながら立ち上がる。
「私が紳士でいられるように、明日いくつか着物を見繕いに行きましょう。あなたがその洋装を好むのであれば仕方ありませんが……」
「行きます。連れていってください」
食い気味に言い募れば笑われて、恥ずかしさに頬を膨らませた。でも。
(ああ、私、本当に桃介さんのそばに戻ってこれたんだ……)
じわじわと実感がわいてきて自然と笑みがこぼれると、桃介さんが小さく呟く。
「……そんな可愛い顔を見せるのは反則でしょう。今すぐ前言撤回したくなる」
「桃介さん? 何か言いました?」
「いえ、何でもありませんよ。それよりお腹は空きませんか? 簡単なものでよければご用意しますよ」
その言葉にお腹の音で返して、恥ずかしさに真っ赤な顔で俯いたのだった。
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