君を、愛するから、共に

桃芽1

『ーー芽衣ちゃん』

誰かが名前を呼んでいる。

『芽衣ちゃん、芽衣ちゃん』

繰り返し呼び続ける声を知っているはずなのに、靄がかかったようにすぐに記憶は曖昧になって、喉まで出かかった声は音にならずに消えてしまう。

『芽衣ちゃんは……あの人に会いたいんだね』

誰かわからない声に頷いて、忘れることのない人の姿を思い浮かべる。
桃介さん……私が初めて恋した人。

(桃介さんに会いたい……っ)

ぎゅっと手を握ると、その手に重なった温もり。

『――わかった。君の願いを叶えてあげる』

優しい響きが応えた瞬間、景色が暗転して、遠のく意識に、けれども抗わないのはあの声を信じたいから。
誰かもわからない、何が起きているのかもわからないのに身を任せるなんて愚かだろう。
それでもきっと、この機会を逃せばもうこの願いが叶うことはないのだろうから。

『――幸せになるんだよ』

優しい響きに包み込まれて、その声に、心の琴線がかすかに震える。

(あなたは…………リーさ……)

曖昧な記憶の向こうに浮かぶ姿。
それはあちらの世界か、元の世界か。
パキン、と何かが割れる音が聞こえて、温もりはさざ波のように消えていく。
気づくと辺りは闇に包まれていて、静まり返った水面には夜空に浮かぶ真っ赤な満月が映っていた。
ほろりとこぼれた涙の意味がわからないまま泣いていると、「芽衣さん……?」と背中越しに名を呼ぶ声に胸が震える。
確認するのが怖くて、でもそのままでいられるわけもなく振り返ると、そこには会いたいと何度も願ったあの人がいて。
その名を口にする前に隔てていた距離が縮まって、強い腕に掻き抱かれる。

「――ここにいるあなたは本当に芽衣さんですか? 私の思いが描いた幻でしょうか。ああ、それでも構わない。あなたがこの腕の中にいてくれるのなら」
「……幻なんかじゃありません。私はあなたの前にいます」

震える声で言葉を紡ぎだして、その姿を確かめようとするけれど、桃介さんは腕を緩めてくれなくてその顔を見ることは叶わなかった。それでも。

「桃介さん……っ」

強く抱きしめる腕の強さも、頬に触れる髪の感触も知ってる。
甘く香るチョコレートのにおい。それら全てが桃介さんだと教えてくれるから。

「幻でないというのなら、あなたが本当にここにいるのだと私に教えてくれませんか? 触れて、この温もりが幻でないと教えて欲しい」

切なく乞う声に身動ぐと、わずかに腕が緩んで、自由になった手を彼に伸ばす。
震える指先で触れた頬の温もり。私を映す空色の瞳。
ああ、本当に今目の前に桃介さんがいるのだと、いまだ夢うつつの心持ちが現実を受け入れる。
すると、彼の眉が歪んだと思った瞬間、重なった唇の感触にくらりと眩暈がした。
この温もりを知ってる。この熱さも……知っている。

「は……っ、芽衣さん……っ、……っふ、……本当にあなたなんですね」

口内を舌が蹂躙して、吐息さえも食まれて、声を出す暇も奪われただひたすらにその熱を受け止め続けて。
掠れた問いかけに閉じていた瞼を開いて小さく頷く。
はいと、あなたに会いたかったと紡ごうとした声は再び塞がれて告げられなかったけれど、その腕を求めていた私は彼にそのまま時を委ねた。

→3話へ
Index Menu Next→