この場所より永遠に

斎千4

最後の戦いを終え、東北のここ斗南に移り住んで、半年余りが過ぎようとしていた。
生きて帰れる見込みのない戦いに赴こうとしていた自分の傍にいたいと、後を追ってきた千鶴。 どんなに諭しても聞き入れない彼女に、自分を映す曇りない瞳に、抱き寄せずにはいられなかった。
千鶴を想うなら、ここで別れた方がいいのだと、理性は最後まで告げていた。
それでも、震える指先は彼女の頬に触れ。
惑い揺れる瞳は彼女をとらえ。
唇は――彼女のそれに重なった。

会津藩士として斗南に共に来て欲しいと乞われた時も、千鶴は躊躇うことなくついてきてくれた。 彼女が笑い、「斎藤さん」と柔らかな声で自分を呼ぶ。
そのことがとても幸せで、毎日が満ち足りていた。
しかしある時、ささやかな願いが自分の中に芽生えていることに気がついた。
「斎藤さん」といつものように呼ばれた時に、かすかに胸によぎる焦燥。
嬉しいはずなのに、どこかもどかしくて。
これは、そんな変化に戸惑っていた秋も終わりの時分の出来事――。

* *

勤めを終えて、いつものように家路を歩いていた斎藤を呼びとめる声があった。
それは隣家の住人。

「お勤めお疲れさん。今日もまっすぐお帰りとは、千鶴ちゃんも愛されてるね」
「い、いや……」

にやにやと笑いながらかけられた言葉に、頬が熱を孕む。
どうやってこの場を切り抜けようかと悩んでいると、隣家の住人が思わぬ質問を投げかけてきた。

「ところで前々から聞きたかったんだが、あんたと千鶴ちゃんは夫婦でないのかい?」

「ああ」

「じゃあ、いったいどういう関係なんだい? まさか兄妹ってわけじゃないだろ?」

千鶴とは、彼女が新選組に連れてこられ、屯所に留め置かれて以来の知己だった。
しかし、隊士でない、ましてや兄妹・家族というわけでもない。
かといって、祝言をあげていないのだから夫婦でもなく、将来の約束をしたわけでもないのだから、許嫁でもない。
しばらく考えた後、斎藤はゆっくりと口を開いた。

「……ただ、お互いが好きあって一緒に暮らしているだけだが」

「そりゃいけねぇ。曖昧な関係のままなんざ、千鶴ちゃんが可哀想だよ」

目を丸くした住人は、眉をしかめ首を振った。

「男はそれでもいいかもしれんが、きちんと明確にしてやらんと」

ちょっと待っててくれと言い置き、家の中へと引っ込んだ住人は、酒樽を手に戻ると斎藤へと差し出した。
これできちんとしろ……と。
とりあえず礼を述べて受け取ったものの、手にした酒樽の意をどう千鶴に告げればいいかに惑い、目と鼻の先にある我が家に入ることが出来ず斎藤は酒樽を見つめ続けた。

「明確に……か」

住人がなぜ酒樽を渡したのか、その意図は察していた。 これで三々九度を行い祝言を挙げろと、そう言っているのだ。
だが、改めて夫婦に……と切り出すことは、ひどく気恥ずかしかった。
もちろん今まで全く考えなかったわけではない。
斎藤にとって千鶴はなくてはならない――決して手放せない唯一の存在だった。
しかし、あとどれくらいの時間、彼女と共にいられるのかわからない身を思うと、そのようなことを望むのは浅ましいように思えた。
しばしの逡巡の後、ようやく決意を固めると家の戸を開いた。
いつものように帰宅の旨を伝えると、千鶴が笑顔で迎え入れてくれる。

「お帰りなさい、斎藤さん。外、寒くありませんでしたか? もうすぐ雪が降るらしいですから、あんまり薄着で出かけちゃ駄目ですよ」

すぐに自分を気遣うところが彼女らしくて、斎藤は笑みを浮かべ首を緩く振った。

「平気だ。寒くはない」

「また、そんなことを言って……。ご近所の方も、心配してるみたいですよ。斎藤さんが毎日薄着で外にいるから」
と、彼女が右手に持った荷物に気がつく。

「どうしたんです? それ。お酒の樽ですか?」

「……隣家の住人にもらった。お前と共に呑め、と」

「隣家の……ってことは、いただき物ですか? でも、私と一緒にって……私、お酒呑めませんけど、どうしてくださったんでしょう?」

「それは、その……」

当然の疑問に、頬が再び熱を孕む。

『祝言を挙げよう』

その一言が言い出せずに、黙り込んでしまう。
不思議に思いながらも、とりあえずと酒を勧めてくれた千鶴に素直に頷き、盃に注がれた酒に軽く口を付けると、呑みかけの盃を千鶴へと差し出した。

「千鶴、お前も呑め」

「あの……ですから私、お酒は呑めないって言いましたけど」

「……それは知っている。だがこれは、呑んでもらわねばならぬ」

「だから、どうしてですか? それ、斎藤さんがもらったお酒なんですよね? ……もしかして、何か入ってるんですか?」

「いや、何も入ってはいない。ただ、これは普通の酒であって、普通の酒ではなく……」

わけがわからず訝しむ千鶴に、口ごもってしまう。
決意して家に入ったはずなのに、これでは何の意味もないだろう……!
盃を下ろすと、きょとんと見つめる千鶴を見据え、意を決して口を開いた。

「千鶴。お前はその……俺のことを、す……好いているのだろうな?」
「もちろん、好きに決まってます」

唐突な問いに、しかし躊躇うことなく答えた千鶴に安堵する。
さあ、言うんだ!
必死に自分を鼓舞するが、やはりどうしても言い出せず、酒の力を借りようと断りを入れて一気に盃の酒を飲み干した。
しかし、元々酒に強いこともあり、また緊張のせいでどうにも酔えず、斎藤は再び決意を固めて酒の意味を説明した。
黙って聞いていた千鶴はようやく全てを悟り、慌てて盃に新たな酒を注いでくれる。
始めに斎藤が、次に千鶴。
媒酌人もいない、たった二人だけの祝言。

「……これで私達、夫婦になれたんですよね?」

緊張で舌を少しもつれさせながらも微笑んだ千鶴に、視線をそらせ頷く。
『夫婦』という言葉がたまらなくくすぐったかった。
しかし、斎藤にはもう一つ千鶴に伝えねばならないことがあった。
そう――ここ最近ずっと胸にわだかまっていたあの事を。

「時代の流れと共に、変わるものと変わらぬものがあり、俺は変わらぬものを信じていると、以前言ったと思うが……変わっていくべきものも、世の中にはある」

話が見えず、瞳を瞬きながらじっとみつめる千鶴に、『斎藤さん』ではなく名前で呼んで欲しいのだと乞うと、その願いどおりに彼女が名前を口にした。
瞬間、どくんと鼓動が跳ね上がった。
どくどくと胸は早鐘をうち、頬はカッと熱を帯びる。
千鶴が自分のことを『一さん』と名前で呼んでくれる。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。

澄んだ空気と、綺麗な清水。
それらは発作を抑え、今では吸血の衝動はほとんどなくなっていた。
日中陽の光を浴びることも苦ではなくなり、まるで以前と……羅刹になる前の自分に戻ったような錯覚さえ覚えるほどだった。
しかし、たとえこの身が羅刹ではなくなろうと、酷使した身体が負った痛手は消え去りはしない。 望まざるとも、いつかは必ず終わりがやってくるのだ。
それでも……最後のその時まで彼女の傍に在りたい。

「一さん」
向けられた花の笑顔に、かすかに微笑んで。
末永く共に、と胸の奥願うのだった。
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