梔子香る

斎千2

「……あの、斎藤さん? 傷口はもう塞がってしまったみたいですけど」
躊躇いがちに問う声に、ハッと我に返った。
弾かれるように身を起こすと、千鶴がよろけて尻もちをつく。

「きゃっ……!」
「す、すまない……!」
突き飛ばしてしまったことを詫びながら、斎藤はひどく動揺していた。

「どうします? もう一度、傷をつけましょうか?」
呑み足りなかったのかと勘違いした千鶴が小太刀を構えるのを止めると、逃げるようにその場を離れた。

 * *

「俺は何を……」

一人外へと出た斎藤は、先程の痴態を思い出し眉を寄せた。
原田と永倉が抜け、沖田の病も癒えず。
幹部の仕事をこなせるのは、いまや斎藤だけになっていた。
しかし陽の光は羅刹となった身体から思いのほか体力を奪っていた。
無理がたたり傾いだ身体は、自分で起き上がれぬほどに疲弊していた。

『……今は危急の時なんですよね? 体力を取り戻さなきゃ……』

そう言い、我が身を差し出す千鶴にすがり、溢れる血を嚥下する。
甘い血潮に次第に呼吸が楽になり、千鶴の傷が塞がる頃には羅刹の衝動は収まっていた。
しかし斎藤は傷が塞がってなお唇を寄せ、千鶴の肌に舌を這わせていたのだ。

「…………っ」

己の浅ましさに、胸をかきむしりたい衝動に駆られる。
斎藤のためにと自分の身を傷つけ、血を差し出す千鶴に抱いた想い。
それは信頼を越えた情……恋情だった。
このような想いを女に抱いたことなど一度もなく、己の変化にひどく戸惑う。
瞬間、胸に去来した記憶の欠片。
新選組のためにと芸者に身をやつし、酒場に潜入した千鶴。
その艶姿を皆が称賛する中で、斎藤は言葉を発する事も出来ずにただ見惚れていた。
思えば女を綺麗だと思ったのは、この時が初めてだった。

『はい! 斎藤さんに差し上げます』

微笑みながら、手の中の小さな雪うさぎを差し出した千鶴。
雪うさぎを知らない斎藤のために、指先が赤くなるのも厭わずに作ってくれたその優しさに、知らず笑みが浮かんでいた。
童のように無邪気で純粋。
穢れない白い雪のうさぎは、まるで彼女のようだと思った。
惑い、一人夜空を見上げていた時のまっすぐな言葉。
斎藤を気遣い、羅刹の衝動を抑える方法を探そうとした優しさ。
はらり、ひらりと降る思い出は、散る桜の花びらのごとく、淡く静かに斎藤の心に降り積もっていた。

「俺は……」

胸に宿る確かな恋情。
しかしそれは、決して明かせぬ想い。
千鶴は新選組預かりの身。
自分達から離れれば、やがて穏やかな幸せを見つけるのだろう。
人を斬り、やがては自分も斬られ果てていく。
そんな斎藤に、彼女を幸せにすることなど出来はしなかった。

されど萌え立つ想い。
密やかに、梔子香る―――。
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