名前を呼んで

沖千3

「ふう……」

前髪を掻きあげると、千鶴は掃除の済んだ室内を満足げに見渡す。
この雪村の里で沖田と二人生活を始めて二月。
焼き残った家を手直しして掃除をし、ようやく生活が整ってきた。
決して裕福とは言えないけれど、戦いから離れ穏やかに暮らす毎日は千鶴にとっては十分だった。

「終わった?」
「あ、はい。今、終わりました」

顔を覗かせた沖田に、にこりと微笑む。
胸を病んでいる沖田に掃除をさせるわけにはいかず、日向ぼっこをしてもらっていたのである。

「千鶴ちゃんは本当に掃除が好きだよね。そんなの適当でいいのにさ」

「一日掃除しないとあっという間に埃が積もっちゃうんですよ」

「ふーん」

気のない返事に苦笑しながら、厨房で二人分の茶を入れてくる。

「家が綺麗になるより君に構ってもらう方が、ずっと僕は嬉しいんだけど」
「……っ! ご、ごめんなさい」

頬を染めて思わず謝る千鶴に、沖田は口の端をつりあげくすりと微笑む。
共に暮らすようになってから二月が過ぎたというのに、相変わらず千鶴の反応は初々しいものだった。

「というわけで、千鶴ちゃんには罰ゲームを受けてもらおうかな」
「罰ゲーム?」
「そう」

にこにことそれは楽しげに笑う沖田に、千鶴が顔を引きつらせる。
それは、彼が悪戯を思いついた時によく浮かべていた笑みだった。

「何をしてもらおうかな」

にこにこにこにこ。
深まる笑みに、反して千鶴の血の気が引く。
どんな罰を受けさせられるのか?
そもそも掃除をしていて罰ゲームを受けさせられること自体がおかしいのだが、パニックを起こした千鶴は不幸なことにそれに気づかなかった。

「――総司」
「はい?」
「名前。呼んでみて?」
「え、ええええええ!?」
「ほら」
促され、千鶴はあわあわと動揺する。

「む、無理です。急にそんなこと言われても……っ」
「総司」
「そ……~~~っ」
「…………」
一向に名を呼べない千鶴に、沖田がはぁと呆れたように息を吐く。

「そんなに難しいことじゃないと思うんだけど? 君、さっきまで『掃除』してたんでしょ?」

「は、はい」

「『掃除』は言えるのに『総司』は言えないんだ?」

「だ、だって……っ」

つりあがった眉に、千鶴が困ったように下目遣いに見る。
沖田と出会って五年。
ずっと『沖田さん』と呼んでいたのだ。
急に名前で呼べと言われても順応できないのは当然だった。

「僕は君が好きだよ。君は?」
「…………っわ、私も……好き、です」
「ありがとう。だったら呼んでよ」
「~~~~~~~」
想いを告げられ微笑まれ。
いよいよ千鶴は追い込まれる。

「できないんだ? じゃあ僕も『雪村』って呼ぼうかな。一くんみたいにさ」

「そ、そんな……」

「じゃあ呼んで?」

絶対譲る気がないだろう押し問答に、千鶴は覚悟を決めるときゅっと目を閉じ口を開いた。

「そ、総司……さん」
「うん」
目を開くと、そこには幸せそうに微笑む沖田の姿。

「もう一度呼んでみて」
「そ、総司さん」
「もう一度」
「総司さん」
二度三度と呼ぶうちに、ようやく口ごもらずに言えるようになった千鶴に、沖田が目尻をわずかに染めた。

「……君に名前を呼ばれるのがこんなに嬉しいなんて思わなかったな」

いつにない素直な言葉に驚いて。
ついでその顔を見て、千鶴もふわりと微笑む。

「私も嬉しいです。……総司さん……に呼んでもらえると」

「うん。僕も千鶴ちゃんって呼ぶ方がいいな」

だから――と、沖田が腕を伸ばし千鶴を抱き寄せる。

「名前で呼んで? 僕は君の誰よりも近い人でありたいから」

「はい……総司さん」

言葉に込められた想いが嬉しくて、愛しい人の胸の中で名を繰り返す。
名前を呼んで。
ずっと傍で、ずっとずっと―――。
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